連載小説

連載小説「泡」 第三部「鏡花水月」第1回  Posted on 2025/11/03 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第三部「鏡花水月」第1回 

   闇の中に光が見えた。それは、最初、微かな一点の灯のようなもので、俺はそれを長いことずっと、たぶん、ずっと自分が戻って来るまで見ていた、もしくは感じていたように思う。それがどのくらいの長さ、或いは、歳月だったのかは分からない。一日かもしれないし、一年かもしれない、もっとかもしれなかったが、そこは闇の中だったから、時間の長さが分からなかった。次第に、だんだん、その微かなものが、導く光のようなものへと変化していく。俺は次第に、その導く光のせいで、俺自身を取り戻していくことになった。きっと、俺は息を吹き返したのだと思う。思いとか思考が再び動きだし、ここはどこだろう、とか、これまでの記憶の断片なんかを少しずつ取り戻しはじめていた。そして、ついに、いや、ようやく、自分がまだ生きている、らしい、ことを理解するに至った。
   俺が最初に気が付いた時、そう、その通り、そこは真っ暗な空間だった。じめじめした狭くて暗い部屋のような場所だったが、不意に様々な神経の先端が繋がりはじめだし、そう、これをそう言っていいのであれば再び世界を、もしくは自身を、認識することが出来るようになった。認識・・・、たぶん、そうだ、これが認識ってやつなのだ。でも、認識を取り戻しても、不思議なことに、起き上がることが出来なかった。身体が思うように動かない。右手を持ちあげることは出来たが、左手の感覚は相当に鈍く、何かで固定されているからか、判然としない。ひょっとすると動いていないのかもしれない。頭のスクリーンにやつらとの格闘の場面、断片だけれど、が映し出されては、消えた。鉄パイプで腕をへし折られた瞬間の激痛を思い出した。くそ、ということは、左手は死んでしまったのか、だから感覚がないのか。足はどうだろう、と試してみる。足の指先は動いた。でも、やはり何かで固定されているようで、腰の辺りから下に重たい負荷を感じる。息を吸いこんでみた。肺の奥までじめじめした空気が入り込んだ。肺の節々が鳴るような、違和感を覚えたが、しかし、呼吸は出来る。俺は深く息を吸いこんでみた。そしてそれをゆっくりと吐き出した。少しずつだが、くぐもっていた脳が、動きはじめると、俺の認識は進んだ。

連載小説「泡」 第三部「鏡花水月」第1回 

© hitonari tsuji



   いや、或いは、俺はもしかして、死んでいるのかもしれない。これが死後の世界というものか。ぼんやりとした思考だけがあり、肉体はあるようだが、とにかくよくわからない感覚。確かに、最後の記憶の中で、俺は大勢の男たちと格闘していた・・・。狭まる視界の中で、俺は必死に耐え続けた。頭を殴られ、鉄パイプを振り下ろされ、輩たちに次々蹴り上げられ、そうやって意識が遠ざかった。あの状況を思い出す限り、あれだけの格闘から生還できた、とは思えない。じゃあ、やっぱりここは死後の世界か、だから、闇のように真っ暗なのだろう。立ち上がることも出来ないし、身体の一部があるとして、思うように動かせないのだから、この状態は普通ではない。
   いくつかの記憶を取り戻し、事態を認識出来てはいるが、これがもとの世界だとも思えない。とにかく、ここは真っ暗なのだ。闇の中・・・。どんなに目を大きく見開いても、そこに光はなかった。これが死後の世界だとするならば、俺は死んでいることになる。そうか、死んだか・・・。あの女が言っていた。そうだ、あの女に出会った時、あの女はそのことを口にした。
   『わたしね、時々、自分が生きてないんじゃないかって、思うことがあるの』   そのことばは、今、俺自身の言葉でもある。あの時の女の声はどこか、お経のような、抑揚のない不思議なリズムを伴っていた。
   『だから、教えてほしい。わたし、生きてるよね? 自分がもう死んでしまっているような気がしてならないの。自分は死んでいるのに、生きていると勘違いして、ここにいるような、そういう気がする。わたし、ちゃんとここに存在してるのかしら?』

連載小説「泡」 第三部「鏡花水月」第1回 

© hitonari tsuji



   ミルコ・・・。そうだ、ミルコという名前の女だった。俺は、生きていますよ、と女を安心させるために言った。その言葉は今、俺自身に戻ってきている・・・。
   『人間って、自分が死んだってこと、分からない人もいるでしょ。きっと、みんな、自分が死んだと気づかないまま、ここに今まで通り生きている人ばっかりな気がしない? そうじゃないって、言いきれる? わたしはだから、ちゃんと生きていることを教えてもらいたいの』
   それはミルコの言葉だったが、今は、俺の気持ちそのものでもあった。時間が経過するに伴い、次第に俺の思考は清明になってきた。記憶がどんどん戻って来た。でも、動けない。生きているのに死んでいるような女だと、あの頃、俺はあの女について考えていたけれども、今、俺は自分こそが、死んでいるように生きている人間なのじゃないか、と認識しはじめている。もしくは、生きているように死んでいる人間なのかもしれない。けれども、俺の中に消えない灯りがあった。その光がきっと俺を俺としてこの世界に引き留めている・・・。アカリに会いたい。もう一度、出来ることなら、もしも、俺が死んでいないのであれば、アカリに会いたい。その情念とでもいうべきものが、俺を今、ここに象っているのだった。
   「アカリ」

連載小説「泡」 第三部「鏡花水月」第1回 

© hitonari tsuji



   俺は声を振り絞ってみた。すると、声はその闇の中で響いた。不思議な実感を得た。もう一度、俺は「アカリ!」と今度は少し大きく叫んでみた。俺の声は闇の中で反響している。果てしない宇宙のような空間の中で、俺はアカリの名前を連呼し続けた。
   「アカリ! アカリ!」
   すると、突然、闇が裂け、そこから光が降り注いできたのだ。俺は驚き、目を見開いた。闇が光で満たされ、太く響く声が降って来た。
   「目覚めたか」
   その声は、確かに、そう言った。俺はぼやけた光の方に頭を傾けてみる。そこには光を纏った何者かが立っていた。
   「長い眠りだった。でも、そろそろ目覚めると信じていたよ」
   その光を纏った人物の後ろから、こちら側を覗き込む複数の人影があった。目が次第に光に慣れてきた。どうやら、俺は寝ているようだ。光を纏った人物の背後から出てきた一部の人間たちが俺の反対側へと回り、俺の顔を真横から覗き込んだ。そして、手を翳した。その手が俺の額に触れる。俺はその人の手の体温を感じることが出来た。その人物のほかに数名がいて、俺を取り囲んでいく・・・。
   「わたしがわかるか?」
   光を纏った人物が俺の真横に立ち、俺を覗き込みながら言った。見覚えがあった。長い顎鬚、鋭い眼光、ああ、俺が地下道の仙人と呼んでいた人物に似ていた。あの地下交差点にいた浮浪者のような、哲学者のような、不思議な老人・・・。俺が驚いた顔で、頷くと、男は不意に笑顔になり、そうか、わかるか、と告げた。

 次号につづく。

  
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自分流×帝京大学

辻仁成、エグジビジョン情報です。

1月中旬から、3月中旬まで、パリの日動画廊さんで、グループ展に参加します。何作品出るか、まだ話し合い中ですが、たぶん、6~8点の間じゃないかなと思いますよ。
一部の作品が、ぼくの美術サイトで更新されましたので、御覧ください。

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。