連載小説

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第4回 Posted on 2025/11/06 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第三部「鏡花水月」第4回  

   電車を乗り継ぎ、途中からバスに乗り換え、半島のはずれの漁港駅前バス停に着いたのは、太陽が地平線の上で力強く輝きだし人々が活動を始めるような時刻だった。携帯は充電が切れているので使えなかったが、カードはまだ使うことが出来た。漁港はこの時間になるともう人影もまばら、胴長を着た男たちが後片付けに追われている。見回したが、父親の姿はなかった。
   俺はそこから実家を目指してよちよちと歩き続けた。車だと10分くらいの距離だったが、今の俺の歩く速度だと1時間はかかる。久しぶりに太陽の光を浴びた。途中、道端で休息をとったりしながら、ゆっくりと実家を目指すことにした。ともかく、そこに行けば休める場所がある。両親が俺を待っている。もしかすると警察が来た可能性もあったが、それでも、今の俺には他に行く場所なんてない。太陽があまりに眩し過ぎて、長いこと地下生活をしてきた身にとってはきつかった。ベンチがあったのでそこで少し横になり、体調を整えてから、再び歩き出した。実家に着いたのは昼前のこと。古民家と言えば聞こえはいいが、やはり漁師だった父親の父親が建てた平屋造りの家で、あちこち痛んでおり、見た目はかなり見すぼらしい。俺の部屋だけ、改築された時につけ足され、独立する形で海側に突き出している。裏庭では鶏が飼育されている。父親が使っている軽トラックが入り口の前に停められてあった。玄関の引き戸を開け、中を覗くと、両親が狭いキッチンの小さな食卓で向かい合って昼食をとっていた。母親がすぐに気が付き、しゅう、と声に出したが、父親は俺を一瞥しただけで表情は変えなかった。母親が立ち上がり、驚きと喜びが混ざり合った表情で、
   「どうしたの? 不意に戻って来るだなんて。びっくりするじゃない」
   と言った。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第4回

© hitonari tsuji



   左腕が肩から掛けられた三角巾によって固定されているのを見つけ、母親の笑顔が不意に強張った。髪の毛も洗ってなかったので、電車やバスの中でも人々に不審な目で見られた。ここでもまた同じような視線を浴びることになる。肩から耳の辺りにかけて鉄パイプで殴られて出来た青い痣も残っている。中央駅のトイレの鏡で、確認をしたので、今の自分がどんなに酷い状態かだいたいわかっていた。
   「何か、食べる?」
   母は、俺の身なりについては言及しなかった。俺は父親の横に座り、用意された温かい白飯を頬張った。焼き魚を箸でつついた。温かいみそ汁を胃に流し込んだ。まともな食事にありつくのは久しぶりのことだったから、思わず、顔が綻んでしまう。父親は何も言わず、食事を再開した。母親は俺のために、冷蔵庫からいろいろと食べ物を取り出し、それは、かまぼこだったり、たくわんだったり、昨夜の残りのコロッケなんかを小皿に入れて、前に出した。ずっと心配そうな顔で俺のあちこちを見ていたが、特に、それ以上のことは言葉にしなかった。両親の反応から、警察が来たような感じは受けなかった。やはり、俺を今のところ、特定はできていない、ようだった。
   「その腕はどうしたの?」
   母親が俺の左腕を見つめながら言った。
   「バイクで、事故った」
   心配させたくないので、嘘をついた。
   「大丈夫なのかい?」
   「しばらく、安静にしとけって医者に言われた。すぐに回復するって・・・。ま、たいしことはない。でも、働けないからさ、しばらくここにいるけど・・・」
   「そうね、治るまでここにいた方がいいわね」
   父親は食事が終わると、出て行った。昔から、言葉数の少ない人で、友だちもいなかった。珍しいほどに堅物な父親なので、何を考えているのか25年の付き合いだけれど、よく分からない。しかし、つねに与えられた仕事をこなし、賭博も酒もせず、ここで母と生きていた。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第4回

© hitonari tsuji



   「父さんはまだ漁港で働いてんの?」
   「そうよ。ずっと、一緒。あ、しゅうの部屋もそのままにしてあるから、のんびりしたらいいわよ」
   「あのさ、誰か訊ねてきた? 」
   「だれも来てないけど・・・」
   母親は訝るような顔で俺を見つめながら戻した。何かしでかしたのかい、と言いたそうな顔だったが、俺の性格を知っているので、それ以上のことは口にしなかった。このようなことは日常茶飯事だったし、警察に補導された過去もあった。俺がまともな人生を生きているとは思っていないはずで、父親に至っては、もはや呆れているに違いない。一度、高校生の時に、俺が悪さをし過ぎて警察がやって来た時、警官たちの前で、俺を歯が折れるほど殴りつけたことがあった。何も言わず、警官を見た瞬間に、振り返りざまに俺は胸倉をつかまれ、殴りつけられた。俺がたぶん、いまだに勝てない相手がいるとしたら、それは、俺の父だった。
   「部屋の掃除をしなきゃ、シーツとか、すぐに取り替えるね。食べ終わったら、まず、シャワーでも浴びなさい。その頭、ひどすぎるわよ」
   母親はそう告げると、立ち上がり、忙しそうに、でも、こんな俺であろうと、息子が戻って来て、どこか嬉しそうに、部屋の掃除を始めた。俺は、携帯を取り出し、冷蔵庫の上にある充電コードに差した。とりあえず、シャワーを浴びることになる。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第4回

© hitonari tsuji



   夜、俺は自分のベッドに横になり、携帯を眺めていた。ラインには、アケミから何本かメッセージが入っていたが、それも、二か月ほど前のもので、たぶん内容もあの事件の直後だから、そのことだろうし、既読にはしないことにした。アカリからは、何も連絡が入ってなかった。それはそれでいいような気がした。しかし、どこかに未練もあり、空虚な感じを覚えてならない。アカリと一番仲が良かった時期のやりとりなんかを過去に遡って読んで、しばらく懐かしい思い出に浸った。
   俺はつい、携帯の「探す」機能を使って、彼女のエアタグの位置を確認してみることになる。すると、やはり、あの街のだいたいいつもの場所に青丸が灯っていた。しばらく、一時間ほど、その青丸を眺めていると、それがある瞬間、動きだした。アカリは生きていた。そうか、なるほど・・・。生きているんだな、と思ったら、思わず目元に涙が溜まってしまった。でも、涙が頬を流れる前に、俺は指先で、それを拭った。
   小さく溜息をついてから、携帯を消すと、それを床に放り投げてしまった。ベッドから起き上がり、窓辺に向かう。遠くに月光が反射する海原が見えた。葦が繁った原っぱの先に浜辺があった。狭くて、小さな海岸線で、ここに至るまともな道がないこともあり、地元の、知る人だけがやって来る秘密の海岸だった。海沿いに民家がぽつんぽつんと建ってはいるが、堅物の父親のせいで、付き合いのあるところはない。俺は窓を開け、そこから外に出てみた。葦の原を横切り、浜辺を歩いた。するとそこにもまた美しい月が輝いていた。
   「アカリ」
   思わず、アカリの名前が口を飛び出してしまう。その月の光の中には、まだあの愛しいアカリがいた。

次号につづく。 

  
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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。