連載小説

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」了 Posted on 2025/11/11 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第三部「鏡花水月」第8回  

   「しゅうちゃんの子よ」
   月光を背に、アカリが言った。アカリの顔は緩み、まるで俺を試すような満面の笑顔であった。何、いきなり、言ってんだよ、と俺は小さな反論を口にしたが、意味が分からず、俺の頭の混乱はさらにさらに続いている。いきなりやって来て、末永くお願いします、と俺の親に言い、そして、挙句に、お腹に4か月になる命が宿っているって、どういうことだ?
   「でも、これまでのこと考えると、その、俺の子かどうかわからないじゃん」
   「分かるよ!」
   「だって、同時期に3人の男と関係があったって、お前、言ったじゃん!」
   「だから、それは、嘘だって言った!」
   「そんなコロコロ意見が変わる奴の話、まともに信じられるわけがねーだろ」
   「この子が自分の子だって、まだ、わかんないの、しゅうちゃん、あんたバカ!?」
   アカリは笑うのをやめ、怖い顔で俺のことを睨みつけてきた。俺は仕方なく、ベッドに腰を下ろし、もう一度、嘆息をこぼしてみせた。くそ野郎・・・。
   「何度も言いたくないけれど、わたしは施設育ち」
   アカリが語り始めた。決意を感じる力のこもった語り口だった。
   「しゅうちゃんのパパやママみたいな人に囲まれて生きたことがない!幸せな環境なんか別世界でしかない!知らない人のうちにもらわれていき、そこで絞殺されるような虐待を受けた。子供なのに、刃物でそいつを刺したのよ。他の子たちみたいにチョコとか飴とか食べることなんか、滅多に出来なかった。だから夜中に砂糖を探しまわった。風呂場で変な壺の中の白い粉を見つけたから砂糖だと思って舐めたら洗剤だったのよ。洗剤だよ、わたしのお菓子!笑える?甘ったれた声で、パパ、ママとか、あの子たちが普通に口にしている何気ない言葉にさえ傷ついたし、性的な虐待なんか日常茶飯事だったから、家出を繰り返して、たどり着いたのがあの街だった。それでも、人なんか信じられなくて、家族なんていう温もりは、わたしにとっては超高根の花で、戸籍くらいはどっかにあるとは思うけど、取得の仕方も分からないし、別にいらねーよ、そんなもんって思って生きてきた。いつも誰かの家を転々として・・・。だからさ、自衛のために嘘も普通に出ちゃうけれど、一つだけ、守ってきたものがあって、もしも、こんなわたしでも幸せになれるなら、もしもなれるなら、わたしを幸せにしてくれる人の子供を産みたい、って。だから、浮気はしないって。しゅうちゃんと付き合っていた時はずっとしゅうちゃんのことだけを愛していた。愛していたの、わかんないのかよ、おまえ! バカ野郎!」

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」了

© hitonari tsuji



   アカリは後半、泣き叫んでいた。その声は、奥にいる両親にも当然、筒抜けのはずだった。俺は立ち上がると、興奮する恐ろしい形相のアカリを抱き留めてやった。アカリは、涙を流して、俺の腕の中で号泣した。左腕は三角巾で固定されていたが、アカリはその包帯に顔を埋めて泣き続けた。アカリのわずかに膨らみはじめた腹部を俺は自分の身体で受け止める格好となった。泣き続けた、いつまでも、大声で泣いていた。
   「わたしだって、幸福になりたいじゃんよ!なりたいよ、しゅうちゃんのお母さんや、お父さんがほしいもん! あんな素敵な両親に育てられたかったもん!」
   アカリの言葉は鳴き声と入り交じり、もう、それは言葉とは言えない呻き声で、彼女の中で我慢してきた悲しみが決壊したような気持ちの氾濫がそこで起きているのがわかった。俺はアカリをとにかく、これ以上溺れさせぬよう、必死で抱きしめ続けた。アカリは憚ることなく泣き続けた。俺はどうしていいのか、分からなかったが、気が付くと、アカリの人生をもう一度自分なりになぞっていて、その痛みや苦しみや死にたいと思っただろう当時のアカリの思いが今の俺の心と錯綜して、自分ももらい泣きしてしまった。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」了

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   「だから、わたしはしゅうちゃんにエアタグを渡したんじゃん!しゅうちゃんが、わたしを裏切らないか、それより、わたしの知らない世界に行っちゃわないか、実はいつもエアタグを見て、不安と闘いながら、しゅうちゃんを追いかけてたんだよ。エアタグの存在忘れたふりはしたけれど、本当は、エアタグでずっと見張っていたんだよ。今日もラーメン屋でちゃんと働いているのか、調べていた。毎日よ、だから、エアタグはわたしとしゅうちゃんを繋ぐ、守り神だった!」
   アカリの流す涙で、俺の胸はびしょびしょだった。それは温かい涙であり、あふれ出る泉のような彼女の気持ちだった。
   「人を信用することが出来なかった。人間なんか、ずっと信じられなかった」
   まもなくアカリは数度大きく深呼吸をし、それからちょっと落ち着くことが出来たのか、泣くのをやめ、少しだけ冷静になって、鼻をすすりながら続けた。
   「だから、試してみたのよ。あの日、しゅうちゃんに、誰の子か分からないって、言っちゃったの。しゅうちゃんの子って、分かっていたけれど、しゅうちゃんが、本当にわたしを愛してくれるのか、嘘がないか、知りたかったし、ってか、ってかさ、わたし、親になるのが怖かったんだよね。めっちゃ、怖いじゃん! 怖いんだよ、あまりに重た過ぎるのよ、こんなわたしには! 施設育ちなのに自分が妊娠したかもしれない、とわかって、病院で調べて、お腹に子供がいると分かっても、トラウマのような過去のせいで、恐怖が先に出るし、何より、自分が親!?親? 親なんか、出来るわけじゃん、そもそも実感できなかったし、めっちゃ恐怖しかなかったんだよ。だって、幸福を一切知らない人間が、幸せになるのって、普通のことじゃないじゃん。そんなのわかってよ、しゅうちゃん! わかんねーのかよ!」
   アカリがそこで再び感情的になり、大きな声で訴えだした。アカリが俺の左腕に顔を強く押し付けてくる。三角巾はびしょ濡れだった。左腕を通して、アカリの心の痛みを分かち合うことになる。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」了

© hitonari tsuji



   「わかったから・・・、アカリ、もういい、泣くな」
   「泣かせてよ、しゅうちゃん。誰にも言えないんだもの、言わせてよ、泣かせてよ、しゅうちゃん。わたし、ものすごく怖いのよ。この子を産めるのかわからないし、親が何か、わからないし、どうしたらいいか、わからないじゃん、助けてよ」
   アカリが泣きじゃくりながら腕の中で暴れだした。俺はアカリが溺れないようにしっかり抱き支えることしか出来なかった。
   「しゅうちゃん、しゅうちゃん・・・」
   「大丈夫だ。ここで産めばいい。こんなボロ家でよければ、ここで、家族、作ればいいじゃん。俺がその子の親になる。父親になる」
   「ほんとうなの? いいの? わたしでいいの? この子でいいの?」
   俺は言葉のかわりに、しゃがんで、アカリの腹部に自分の頬を押し付けてみるのだった。涙があふれて仕方なかった。でもそこには、温もりがあった。俺は未来を感じていた。それは、生まれてはじめて覚えた、親としての気持ちの小さな芽生えだったかもしれない・・・。

第三部、了。  (第四部へと続きますが、少しだけ、時間ください)

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」了

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。