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連載小説「泡」第四部「地上、再び」第6回  Posted on 2025/11/29 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第6回  

   「おや、珍しい」
   そう言ったのは「元高架下の貴婦人」であった。横に「ドクター先生」もいた。二人は俺に近づきながら、微笑むような顔を浮かべ、人懐っこく俺の顔を覗き込んできた。
   「腕は治ったようだね」
   ドクターが俺の左腕を指さしながら言った。
   「おかげさまで、すっかり元通りに戻りました。この通り、歩けるようになって、今は港で働いています」
   「それは素晴らしい」
   高架下の貴婦人が自分のことのように喜んで、俺の左腕を掴んで、力を込めてきゅっきゅっと握りしめた。
   「仙人に会いにきたんですが、いますか?」
   「いるよ。その辺に」とドクター。
   「でも、いつ戻って来るか分からない。ちょっと待ってて、居場所はだいたい検討がつくから、探してくるわね」
   と元高架下の貴婦人が言うなり、探しに出かけた。
   「そこの懐かしいベッドで、横になって、少し、待ってなさい」
   かつて、治療のために使っていたベッドに寝転び、これまでのことをいろいろと思い返していると、まもなく、仙人が老女に連れられてやって来、ベッドの空いているスペースに腰をおろした。椅子を持ちだし、ドクターと老女も、俺を囲むような感じで陣取った。薄い電球が灯っているだけの何もがらんとした空間だった。けれども、俺には懐かしい・・・。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第6回 

© hitonari tsuji



   「元気そうじゃな」
   仙人が安心感のある優しい表情で言った。相変わらず響き渡る太い声・・・。
   「あの、しばらく、数日程度でいいんですが、ここに泊めて貰えますか?」
   仙人は微笑み、ああ、もちろんだ、と言った。
   「でも、何しに来た。また、大変なことが起こるだろうに、何か、理由があるな」
   俺は、かいつまんでこれまでのことを彼らに語った。命の恩人であり、少なくとも俺を裏切ることのない、この街では数少ない味方であった。
   「お前が、父親か!」
   仙人が口元を緩めた。ドクターと老女もお互いの顔を覗きあい、嬉しそうな顔をした。でも、アカリのことを話すと、彼らの顔からその柔らかい光が消えた。どうやったら、彼女を息子の元に取り戻すことが出来るのか、どうやったらその心の傷を癒してあげることが出来るのか、俺は仙人に問うた。仙人はしばらく考えていたが、
   「心を閉ざした人間であっても、誠意や愛は必ず届く。向き合うことが大事じゃ」
   と言った。
   「真実の気持ちを届けることが出来れば、その人は再びお前の元に戻る。その気持ちがどのようなものか、どのように届けるべきか、それは自分を信じて、自分で考えるしかない」
   仙人が口にした言葉ははっきりとしたものではなかったが、けれども、今の俺には光を持ち込むものとなった。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第6回 

© hitonari tsuji



   夕刻、俺が出かけようとしていると、元高架下の貴婦人が一枚の紙きれを持ってやって来、それを手渡した。この街の地図であった。青い線が地上世界の路地、緑色の線が地下道、そして、赤い線が、地底世界の通路だという。
   「バツ印のところが、地底世界から直結して外へと通じる出入り口になる。もしかすると役立つかもしれないから、持って行きなさい。水路沿いに道があるから、水の流れを追えば、ここに戻って来ることが出来ます」
   俺はその紙きれを握りしめ、ニット帽、マスク、伊達メガネで変装をし、再び、ギャラリー周辺の様子を見に出かけることになった。ちょうど、この街の中心部、広場の辺りに地底世界に通じる出入り口が一つあった。試しにそこから出てみよう。
   地上世界は人で溢れているというのに、地底路には人っ子一人いない。ねずみや蝙蝠がいるだけの、ほぼ光の無い道が続いた・・・。
   地底から地上へと登る穴には、側面に上り下りがしやすいよう鉄の足場が取り付けられてあった。壁に埋め込まれた鉄のステップ段のようなものだったが、そのまま、登りきると、開け閉めが出来るハッチにぶつかった。たぶん、防火用の通路だと思われる。火事が起きた場合、ここからホースを直接、地下水路におろすための、もしくは避難用として彫られた戦時中の穴かもしれなかった。最近、使われた形跡はなく、ハッチは錆びついており、かなりの力を要したが、まもなく、鈍い音をあげて、鉄蓋が開いた。そこは配送車の駐機場の一隅、ゴミ集積場の真横だった。そこから、さらに地下道へと出る階段を上ると、大きなビルの一般地下駐車場に抜け出ることが出来た。何食わぬ顔で、守衛室の前を通り越し、外に出た。2ブロックほど歩いた場所に高沢育代が個展を開催するギャラリーがあった。昼とは違い多くの人で賑わっていた。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第6回 

© hitonari tsuji



   周囲を見回し、様子を見ていると、不意に携帯に着信を知らせる振動が走った。取り出し、覗くと、アケミからだ。
   『しゅうさん、まさか、こっちに来てないわよね? 今、動いちゃダメだからね。ニシキさんが、アカリがいることに気が付いたらしく、うちの店もそうだけれど、この辺のクラブとかに、しゅうさんを見かけたら知らせるよう、 御触れが出回ってる。だから、今は絶対に来ちゃだめ』
   俺は個展会場入り口の写真をアケミに送り付けてやった。すぐに携帯電話がかかって来た。携帯を耳に押し当てた。
   「何やってるの!? バカなの!?」
   「じっとしていても、しょうがねーから、様子を見に来た。変装しているから、大丈夫、たぶん、誰も、分からねーよ。今から、中に入ってみる」
   「やめてよ! すぐにリンゴちゃんの元に帰って、お願い。しゅうさん、今度、見つかったら、マジで、殺されるからね」
   「アケミ、ありがとう。でも、リンゴには母親が必要なんだよ」
   俺は携帯を切り、それから、ニット帽を深くかぶり直し、ギャラリーへと向かって歩き出した。 

次号につづく。

  
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辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。