連載小説

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第12回、第四部、了。 Posted on 2025/12/06 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第12回    

   「わたしは汚れていない」と言ったアカリの言葉は俺に強い衝撃を持ちこんだ。いい意味にも捉えることが出来たが、そうじゃない意味にも・・・。俺は自分の内側で力が萎えていくのを覚えた。この泥濘のごとき世界で家族のために必死で藻掻いている自分がくだらなく思えてくる。目元を手で押さえ、小さく、ため息をついた。俺はどうしたらいい・・・。
   「しゅう、ごめんね」
   「別に、・・・」
   「施設から逃げ出した時、行き場がなかった。そこに現れたのが、ニシキさんだった。そして、彼はわたしにだけは優しかった。大切にしてくれたの。だから、あの人は、わたしには手をださない」
   「くそ。アケミはどうなる? あいつはお前のせいで、ぼこぼこにされて人生を奪われた。お前はいいかもしれねーが、俺はどうなる? リンゴは? 自分勝手じゃないか」
   「しゅう、そうじゃない。勘違いしないで。これ以上、問題を大きくさせないために、わたしはニシキさんと話し合うつもりなの。そして、これまでのことをちゃんと説明して、彼の怒りを鎮めるつもり・・・。戦争と一緒よ。平和は、それぞれの我慢の上になりたつものだから・・・。あなたもニシキさんも、みんなで一斉に手を引くしかない。わたしが、ちゃんと調停します。よく考えて、しゅうがニシキさんと刺し違えることが出来たとしても、無傷というわけにはいかないでしょ? そしたら、リンゴはどうなるの?」
   俺は言葉を見つけ出せなかった。頭の中が混乱し、何が正しい解決策か、分からなくなっていた。アカリのために命を懸けてもいい、と思っていたが、もはや何が勝利か、正義か・・・。俺は犬死することになりかねない。愛が、泡のように、消えていく。あまりに哀れで、見当もつかなかった。俺は何を守ろうとしていたのだろう。
   「しゅう?」
   「もういい」
   「この問題は、しゅうが思っているよりも、根っこが大きい。わたしがニシキさんとしっかり話し合うことが、大事。家族が待つ世界に戻ってくれる?」
   「・・・・」
   「お願い。リンゴの傍にいて・・・。わたしは、この問題が解決したら、自分と向きあい、もう一度、母親としてやり直せるか、挑戦してみるから」
   出るのは嘆息ばかりであった。
   「しゅう? そうしてくれる?」
   「・・・・」
   「しゅう、あなたとわたしはリンゴの親です。だから、わたしにはこの戦争を終わらせる使命があるし、絶対、終わらせてみせるから。しゅう、わたしからの連絡を待って」
   その時、バイクのエンジン音が一体に響き渡った。通りが騒がしくなる。シートの裂け目から外を一瞥すると、ニシキがバイクから降り、事務所に入るところだった。中からぞろぞろと若いのが出て来て、ニシキに挨拶をした。俺には飛び出していくだけの力が無かった。身体は動かない・・・。
   『わたしは決して汚れてない』と言ったアカリの言葉が、頭の中で反響していた。汚れていない、汚れていない・・・。くそ野郎・・・。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第12回、第四部、了。

© hitonari tsuji



   俺は目を閉じた。冷静になって考える必要があった。わからないことが多すぎる。判断できない不条理な問題が多すぎた。この戦争を続けるべきか、ここで、中断させて、痛みを分け合うべきか、まったく分からなかった。
   「しゅう。もしも、あなたがわたしに時間をくれるなら、わたしはわたしなりに考えて、問題を解決した後、リンゴの元に戻ります」
   「それまで、俺は何を頼りに、何を信じて、そこで待てばいいんだよ」
   「・・・じゃあ、エアタグを身に着ける。それでいい?」
   「・・・マジか」
   「うん、受け取るよ。しゅうが地元に戻ってくれるなら」
   俺は自分自身の心に耳を傾けなければならなかった。大義名分が手元にはなかった。今、命を懸けるべき大儀がない。小さく息を吐きだしてから、わかった、と敗北者のごとく告げた。
   「そうする・・・」
   「しゅう、ありがとう」
   「でも、正直、失望もしている。お前を再び愛せるか分からない。お前のために命をかけてニシキと戦い抜くつもりだったが、今は、もう、情けないことに、分からない」
   「いいよ、それで。それでいいのよ。戦わないで。・・・じゃあ、一時間後に、中央駅で会いましょう。改札の辺りにいて、着いたらラインする。そこでエアタグを受け取る」
   「・・・わかった」

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第12回、第四部、了。

© hitonari tsuji



   俺は携帯を切った。それから、しばらく、目を閉じ、自分が置かれている状況について思いを巡らせた。俺はニシキの事務所の真ん前にいる。でも、戦意は失せてしまった。怒りも変質してしまっている。アケミの悲しい姿が頭の奥底で明滅しては、俺を責め立てる。俺は何のために、闘ってきたのか、分からなくなった。とにかく、アカリと会い、エアタグを渡すことにしか、希望は残っていなかった。俺は負け犬のような惨めさの中にいた。何も出来ない腑抜けだ。目元を指先で押し、どこからともなくやって来る疲労のせいで、俺はまるで生きた躯のようであった。
   逃げ出すように、裏手から雑居ビルを後にした。この街を彷徨う亡霊のごとく中央駅を目指した。どこをどう彷徨い歩いたのか分からない。力が出ないまま、ふらふら、人々をかき分け、かき分け、気が付くと、数えきれない人が出入りする中央駅の巨大改札口に辿り着いていた。その正面に聳える大きな柱に背をついて、そこから出てくる無数の人間をぼんやりと見つめていた。この夥しい数の人間たち一人一人に人生のドラマがあり、大なり小なり、みんな同じような人生の問題を抱えているのか、と思えば、恐ろしくもなった。人々が駅構内からどんどん、どんどん、湧き出るように、吐き出されてくる。無数の泡に他ならない。俺はその群衆と対峙した。吐き出される宇宙の源を見ているような錯覚に陥る。人間のエネルギーが改札口という裂け目から放出されていく。次々に人間がそこから吐き出され、宇宙を形成していた。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第12回、第四部、了。

© hitonari tsuji



   まもなく、その人の流れの中から、見覚えのある人間が出現し、それは俺に近づくに連れ果てしない記憶を揺さぶった、まるで生まれたばかりの一つの泡のように、ふっと勢いよく現れると、俺の前に浮かぶように滞空した。ニット帽、メガネ、マスクをしている自分が情けなくなるような、生々しく輝くあぶくであった。
   「ごめんね、遅くなった」
   アカリが目の前で、そう告げた。俺は目を細め幽霊でも見るような感じでじっとアカリを見つめ返した。これが自分の妻なのか、と思った。育児に疲れ、心を病んでいた時の、泣き腫らした目ではない。透き通った目で俺をじっと見つめてくる。俺は無言で、握りしめていたエアタグを差し出すことしか出来なかった。アカリは躊躇うことなく、それを受け取り、素早く確認をすると、自分のジーパンの後ろのポケットに仕舞った。俺は俺の妻を見つめていた。けれども、言葉は続かなかった。大勢の人間が行きかう中央改札口前の広場で、俺たちだけが静止していた。俺は自分の妻の顔をさらにまじまじと見つめ返した。すると、アカリの目から一粒の涙が滲み出し、それは驚くべきことに、宝石のように輝きながら、頬を伝って、地面へと落下した。次の瞬間、アカリが俺の腕の中に飛び込んできた。俺は、どうしていいのか、分からなかった。抱きしめるべきか、突き放すべきか、・・・。俺たちは宇宙の裂け目が創り出す巨大な真空の泡の中にいた。

 第四部、了  (この先は少し、お時間ください)

  
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来月、パリの日動画廊、グループ展に参加します。
1月15日からです。
3月7日まで、パリの日動画廊。
それから、8月前半に一週間程度、個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「夢幻泡影」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。
そして、11月に3週間程度、リヨン市で個展を開催いたします。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
お愉しみに!

辻仁成 Art Gallery

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第12回、第四部、了。

自分流×帝京大学



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辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。