連載小説

連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第5回 Posted on 2025/12/23 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第五部「それが存在するところ」第5回    

    いったい何が起こったのか分からない状況の中、俺はぽつんと刑事課の面談室に放置されることになった。不安ばかりが増していく。俺は面談室の壁を睨みつけながら、これまでに得た情報を俺なりに分析し整理しようと試みた。しかし、出口へと繋がる明白な答えを見つけ出すことが出来なかった。リンゴとの温もりのある日々から一変して底なしの奈落に放り投げられたような感じだった。しかし、その穴の底にはアカリがいる。俺はそこまで降りて行かなければならない。何があいつの身に起こったのか分からなかったが、そこが地獄であろうとどこであろうと、アカリを救出するのが俺の使命だった。ポケットの中で、携帯が鳴った。慌てて覗くと、ミルコ、という文字が画面上に灯っている。
   「もしもし、しゅう君」
   ミルコの声は上擦り、興奮気味だった。
   「君は今、どこ? 警察?」
   「そうです。今、刑事課の面談室にいるんですが、刑事たちに事情聴取をされているような感じで・・・。ミルコさん、いったい何があったの?」
   「わたしもちゃんとわかってないの。でも、何かが起こった。ものすごいサイレンが響き渡って、慌てて飛び出し、ニシキさんの事務所の方に向かったのだけれど、一帯を警察が封鎖していて、だから、周辺の店の従業員とかに聞き回ったりもしたんだけれど、でも、何が起きたのか、具体的なことは何一つ分からないの。救急車が数台来たということくらいしか、・・・。そんな時に限って、携帯の充電が切れちゃって・・・。で、刑事さんは、なんて言ってるの?」

連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第5回

© hitonari tsuji



   「まだ、何も教えて貰えてないんですよ。ただ、アカリは入院をしているようです」
   「入院? じゃあ、育代は?」
   「育代さん? 育代さんが、なんで?」
   不意に高沢育代の名前が飛び出してきた。雑踏の中、歩きながら電話しているようで、ところどころミルコの声が周辺のノイズ音にかき消され、聞きづらくなった。
   「アカリと一緒にニシキさんの事務所に向かったのよ! 」
   「よく聞こえない。もう一度、言って」
   「だから、アカリがニシキと面会することが急に決まったの。前から、会ってもらえないか、とアカリがニシキさんに依頼していたんだけれど、なかなか、会ってもらえなくて・・・、でも、今日、急に向こうから時間と場所を指定してきた。彼の事務所で、ほら、画廊のすぐ隣の雑居ビルの2階・・・。でも、なにか、罠かもしれないじゃない。育代が一人で行かせるわけにはいかない、と言い出して、アカリは一人で大丈夫って言い張ったんだけれど、その、押し問答があって、でも、結局、育代がついて行くことになった。その後のことがまったく分からない。何度も二人に連絡をとろうとしたんだけれど、出ないの。私も一緒に行こうとしたんだけれど、育代に止められたの。みんなで行くとまとまる話もまとまらなくなるから、ここは任せて、と・・・。一緒に行くべきだった」
   「ニシキは死んだ。けが人が数人いると刑事は言ってる。誰がニシキを殺したんだろ?」
   「わからない。でも、考えられるのは・・・」
   その時、面談室のドアが開いて、刑事が戻って来た。俺は慌てて携帯を切り、ポケットの中に仕舞った。すぐにミルコからと思われる折り返しの着信が続いたが、俺は出ないことにした。この会話を刑事に聞かせたくない、という思惑が働いたからだ。

連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第5回

© hitonari tsuji



   「電話に出てくださっても大丈夫ですよ。外で待ちますから」
   「いいや、大丈夫です。・・・母からで、子供が泣いていると・・・。どうぞ、続けましょう。何が起きたか、ちゃんと教えて貰えると助かります」
   刑事たちは俺の前に着席し、言葉を探しながら、俺の顔をじっと見つめてきた。まもなく、井上刑事の口が開いた。
   「高沢育代という女性を知っていますか?」
   俺の心臓は俺の気持ちなど考えもせず、はげしく胸の中心を叩いてきた。そして、同時に、俺のジャケットのポケットの中で、携帯電話の着信音までもが、世界を煽るような勢いで再び鳴り響きだした。身体中に不穏な予感が走り抜ける。けれども、ここで嘘をつくことは出来ない。
   「・・・知っています。アカリが孤児だった頃に、施設で、その、・・・幼かった頃の妻の面倒を見ていた人物です」
   刑事の一人がメモをとっている。用心しないとならない、と思った。迂闊なことは言えない。俺は最低限の情報を刑事たちに伝えることにした。贋作師として世間を騒がせたことなどは、俺から言うべきことではない、いずれ分かることなので、今は伏せることにした。
   「病院から連絡があり、今しがた、死亡が確認されました」
   「え? 誰が?」
   俺の混乱は俺の思考を停止させる。
   「その高沢育代さんです」

連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第5回

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   俺は一瞬呼吸が出来なくなった。必死で支えていた心の支柱が崩壊していくような脱力感に見舞われた。携帯電話が鳴り続けている。ミルコにすぐに伝えるべきかもしれない・・・。しかし、どうしていいのか、分からない。
   「あの、本当に高沢育代さんでしたか? そもそも、どうして、高沢育代だと分かったんですか?」
   「病院で奥様に、そこにいたのが誰か、と聞きました。でも、どのような関係の人物か、そこまでの特定はできていません。かなりのショックを受けているので、・・・。我々に分かっているのは、亡くなった人物の名前だけです。なので、ご主人の協力が必要となります」
   「ちょっと、待って。いや、でも、なんで? なんで、その人が死んだか、教えてください。刑事さんたちの立場はわかりますが、人が死んでる。何も教えて貰えないと協力も出来ない。それにアカリは? アカリは高沢育代が死んだことを知っているんですか?」
   「いいえ。まだ、・・・」
   もう一人の刑事が割り込んできて告げた。沈黙に包まれた。張り裂けそうな緊張の中へと引きずり込まれていく。いろいろなことを想像したが、現実が今のこの瞬間と激しく衝突しあって、俺を金縛り状態にさせた。心が破けそうになる。いや、とっくに裂けていた。
   「この事件はまだ捜査が始まったばかりで、何が起きたのか、私たちもあらゆる方面から検証しているところで、ご理解ください。あなたは被害者の家族ということになります。人道的な配慮から、私たちがあなたを奥さんに引き合わせることになりますが、そのためには、まず医師の許可が必要です。奥さんは現在、怪我をされている上、精神的ショックがひどく、本日の面会は難しそうです。明日、朝の診断の結果を得て、再会という流れになるか、と思われます。我々も、何が起きたのか、を捜査中です。ご協力願わないとならないこともあるか、と・・・。ところで、今日はもう遅いですが、どこか宿泊される場所はありますか? 連絡がつく場所にいて貰いたいのですが・・・」
   俺はうつろな目で刑事たちを見ていた。アカリがどのような精神状態で病院にいるのか、想像もつかなかった。目を閉じた。すとんと魂が肉体から抜け落ちるような錯覚に見舞われてしまう。再び、携帯が鳴りだした。高沢ミルコからに違いなかった。育代が死亡したことをミルコに伝えないとならない。混乱していたが、俺は、冷静に判断をする必要があった。

次号につづく。

  
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展覧会情報

2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86

それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。

そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。

辻仁成 Art Gallery

自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。