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連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第7回 Posted on 2025/12/25 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第五部「それが存在するところ」第7回    

   「ごめんね」
   とアカリは弱々しく告げた。
   俺はアカリに顔を近づけ、大丈夫だよ、と耳元で囁いた。聞きたいこと、知りたいことはたくさんあったが、刺激しないよう、こちらからは何も言わないようにした。アカリが左手を動かしたので、俺は急いで両手でその手を包み込み、優しく握りしめてやった。ひんやりとしていた。生きていない人間のような冷たさ・・・。そして、弱々しい握力であった。
   「しゅう」
   とアカリはもう一度言った。
   「・・・待っていてね」
   「いつまでも待っているよ。大丈夫だ、何も心配しないでいい。すぐにまた会いに来るからね」
   「うん・・・」
   アカリは、目を閉じた。何かを考えているようだった。少し長い沈黙の後、その静寂を破るかのように、決意したアカリが言葉を探しながら語り始める。
   「ニシキさんが、・・・怒りだして、私に飛び掛かってきたの。そしたら、育代さんが立ち上がって、・・・どこから取り出したのか、ナイフで・・・」
   アカリはその時のことを語ろうとするが、いろいろと思い出したのか、言葉がまとまらず、ついに声が震えはじめたので、後ろに待機していた看護師が俺の傍までやって来て、
   「刺激しないでください」
   と言った。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第7回

© hitonari tsuji



   「アカリ。わかった、もう、大丈夫だから、何も言うな。ぜんぶ、警察の人たちがやってくれるから、これからは、自分のことだけを考えなさい」
   アカリは大粒の涙を流しながら、小刻みに何度も頷いている。看護師に、そろそろ、と言われたので、俺はアカリの手を握りしめ、
   「すぐに迎えに来るからね」
   と伝えた。アカリの心に出来た大きな亀裂から、とめどなく涙があふれ出しているのが、伝わって来た。この傷が塞がるまでには少し時間がかかるかもしれない。どんなに時間がかかろうと俺は妻をそこから救いださなければならない。立ち去ろうとする俺をアカリは見開いた目で、・・・涙で赤く腫れた二つの瞳で、追いかけてきた。その視線が俺の心に突き刺さり、眼球の裏にしっかりと焼き付いた。不安に塗れた、哀れで悲しく怯えた瞳であった。
   今はアカリが生きていることを喜ぶべきだ、と俺は自分に言い聞かせながら、そこを離れることになる。廊下に出ると、目の前に、井上刑事がいた。刑事は何も言わなかったし、アカリの状態や、やり取りなどについて聞かれることもなかった。もしかすると、聞いていたのかもしれない。それ以上のことを考える余裕は俺にはなかった。まだまだ、先は長い。リンゴのためにも自分がまずは凛としていなければ、と俺は俺に言い聞かせるのが精一杯であった。
   その後、主治医と回復への道のりについて少し話をした。心療内科の担当医と協議し、退院の日程が決まることになる、と主治医は事務的に告げた。
   病院側との入院手続きを終えてから、俺と井上刑事は外に出た。「回復の様子をみながら多少の聞き取りは続きますが、でも、退院が決まったら、そのまま家に戻ることが出来ます」と刑事は今後のことについて説明をした。病院側から俺に直接連絡が入る、とのことだった。俺はひとたび、リンゴの元に戻り、その日を待つことになる。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第7回

© hitonari tsuji



   空と海の境目に出来た、美しく儚い水平線を俺は見つめている。悲しい世界とは無縁に、そこにはいつもと変わらぬ、穏やかで美しい海原の果てで煌めいていた。俺は砂浜に座り、波打ち際で寄せては返す波と戯れるリンゴの無邪気な姿を見つめていた。「小さな命」は、世界がこれほどまでに残酷で過酷であろうと、親がどんなに苦しんでいようと、現実がこれほどまでに厳しかろうと、それとはまた別の次元で生きていた。彼が微笑むことで周囲は癒された。「小さな命」が撒き散らす生命のエネルギーが、海面で輝く金波銀波と呼応し、俺の内部のぎすぎすした悲しみを慰めるのだった。「小さな命」は何か、欠落した何かを探すように、俺を振り返ると、そこに揺るぎない安心があったことを思い出し、今度は無邪気な笑顔を浮かべながら、俺に向かって突進してくるのだった。俺はその「小さな命」を受け止めるが、勢いに圧倒され、押し倒されるように砂浜に寝転がってしまう。青空が視界で一回転した。
   「パパー」
   「小さな命」が大きな声を張り上げた。知らず知らず、俺はこの子に励まされていた。どんなに辛い現実であっても、人間はこうやって支え合い乗り越えていくことが出来る。この子はこの子の時間軸で生きている。それが何よりの救いであった。この子が世界の中心である限り、その周囲にいる者たちも、再び幸福に合流することが出来る。この子はすでにその存在の力で、両親を救っているのだから・・・。
   俺とアカリにとって、リンゴこそが生きる希望の星に他ならなかった。そして、アカリには、間違いなく、戻って来ることが出来る安寧の場所があった。時間がかかっても、その道のりが険しくとも、ここにアカリを待っている確かな場所があった。アカリはいつでも、心が整い次第、ここに合流することが出来るのだ。それをこそ俺は「希望」と呼びたい。
   再び「小さな命」は母なる海のことを思い出し、俺から離れて、そこを目掛けて駆け出した。そして、波打ち際に出来ては消える無数の泡の中へと、バシャバシャと音をあげながら果敢にも飛び込んでいった。そこがキラキラと輝き、「小さな命」を飲み込んだ。そして、世界は再び光を取り戻すのだった。

次号につづく。

  
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連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第7回

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辻仁成展覧会情報

2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86

それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。

そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
お愉しみに!

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。