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フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙 Posted on 2023/04/24 Design Stories  

拝啓
春暖の候 暖かな陽ざしが嬉しい季節となりました。今日は私とピアノについて、少し、お話をさせてください。

「音楽なしには生は誤謬となろう。」とはニーチェの言葉ですが、恵まれたことに私自身、生まれて1か月の頃から、毎日朝から晩までクラシックのレコードを聴いて育ちました。
そして3歳でピアノを習い始めて、その魅力に取り憑かれて以来、私の人生は常に音楽と共に成長し、音楽によって救われてきました。
 

フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙

幼少からの厳しい練習の中での唯一の楽しみは、毎週1回のピアノの先生のレッスン帰りに母と寄るケーキ屋さんでした。そのケーキ店を、20年ほど後に偶然発見して、あまりの懐かしさに思わず入店し、当時好きだったケーキを口にした瞬間、涙が溢れて止まらなくなりました。
昔から早く難しい曲が弾けるようになりたくて、学校以外の時間はほとんど練習に費やしてきた、夢中だったあの頃。その過ぎ去った過去が、そのとき一瞬にして蘇ってきたのです。
ちょうどプルーストの『失われた時を求めて』の紅茶に浸したマドレーヌの味のごとく、遠い味覚の記憶が、忘れていた過去をまざまざと思い出させてくれました。
 



フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙

ピアニストになりたいという夢が現実に近づくきっかけとなったのは、13歳で受けたモスクワでのショパン国際コンクールでの優勝でした。音楽の英才教育で、ロシアは世界でも最高峰であり、そのロシアで1位をいただけたことは自信にもつながり、この道を歩んでいく後押しにもなりました。

当時はソ連が崩壊してまだ間もなく、寒くて薄暗い、共産主義の痕跡の残る重苦しい別世界で、ドストエフスキーなどのロシア文学に通じるような雰囲気に圧倒されたのを覚えています。
その経験は後にロシア音楽を演奏する上で、情景をイメージする助けにもなりました。
 

フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙

名古屋出身の私は、中学を卒業して東京の音楽高校に進学するつもりでしたが、語学も文化的なことも若いうちの方が吸収が早いだろうと、子供の頃から憧れていたパリ国立高等音楽院に留学する道を選びました。

日本との教育の違いでまず感じたことは、フランス人の学生は、たとえ技術的に未熟であっても「自分はこう表現したい」という意志がしっかりと伝わる演奏をします。
私の場合、最初からたくさんのレコードを聴いて育ったため、無意識のうちに他人の演奏をコピーしてしまっていることに気づき、師事していた先生からも「人の真似ではなく、自分の魂から語りかける音楽をしなさい」と事あるごとに言われました。
それは物事全般においても、自分の意見や主義主張を持つ大切さを考えるきっかけにもつながり、若い時に海外に出て良かったと思っています。
 



フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙

表現者として人に音楽を伝えるためには、自分自身がどんな小さなことにも感動する心の豊かさを忘れず、常にインスピレーションの源泉を追求していくことが大切です。美しい大自然の絶景、美術館での絵画から受ける、光と影の織り成す鮮やかな色彩感、映画や読書を通して浮かび上がる様々な人間模様、また自らの人生体験…あらゆるものが音楽を表現する上で肥やしとなり、奥行きや膨らみ、陰影を与えてくれます。

そして言葉では表現できない奥深い感情も、音楽においては感覚的にダイレクトに訴えかけることができます。聴衆の中のたった一人にでもいい、心に残る感動が届けられたら…。それは演奏家としての課題であり挑戦でもあります。嬉しい時も悲しい時も、音楽が常に身近にあって、ときにそっと寄り添い、ときに鼓舞してくれることは、何よりも人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。

皆さん、いつか、私のコンサートでお会いいたしましょう。広瀬悦子

フランスで活躍する日本人ピアニスト、広瀬悦子さんからの手紙

※ 編集部より、広瀬さんコンサート情報です。
6月9日パリのサル・コルトー(Salle Cortot)にてGuillaume Martigné (チェロ)とCDリリース記念コンサートを開催されます。



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デザインストーリーズ編集部(Paris/Tokyo)。
パリ編集部からパリの情報を時々配信。