PANORAMA STORIES

40, rue de Sèvres セーヴル通り40番地   Posted on 2016/11/04 大島 泉 ライター パリ

パリ左岸のデパート「ボン・マルシェ」の食品館の隣には、長い間工事現場があった。

いや、遡れば、ボン・マルシェができるよりもずっとずっと前から、そこには病院があった。1637年に、不治の病の患者のための、終末医療専門の病院として建てられたのだという。

その後ラエネック病院という名で続いていたのが、2000年に新設された大型病院に統合されて以来、広大な跡地は売りに出されていた。チャペルを中央に、中庭を囲んで十字型に伸びる建物は、歴史的建造物に指定されているから、壊すことはできない。そこに登場したのが、ケリングである。

40, rue de Sèvres セーヴル通り40番地  

ケリングと言えば、グッチ、サンローラン、ブシュロンなど20のリュクスブランドを擁する、フランスの一大ホールディング。その本社と、抱えるブランドの一つであるバレンシアガの本社の新社屋が、ラエネック病院の建物に入ったのだ。
外壁はそのままに、6年間の大工事を経て蘇った建物は、この夏から、500人が働くオフィスになっている。

その扉が、2日間だけ一般に開かれていた。
毎年9月半ばに、歴史好き建築好きのフランス人たちが楽しみにしている「文化遺産の日」の、今年の目玉の一つがここだったのだ。

40, rue de Sèvres セーヴル通り40番地  

「文化遺産の日」には、大統領官邸から、国民議会の議事堂、リュクサンブール公園の温室など、普段は入れないところを見られ、しかも無料とあって、行列をものともせず、文句も言わず、フランス人が押し掛ける。今年の動員は全国で1200万人だったとか。

セーヴル通り40番地の行列は、病院時代を知っていて変身を見届けに来た人々と、リュクス業界のトップ企業の本社を覗きに来た人々が半々ぐらいだったろうか。

どちらにせよ、見どころはたくさんあった。門を入った正面の塔のある建物は、かつての礼拝堂。ステンドグラスや説教台はそのままに、現在は、ケリングの創立者であるフランソワ・ピノー財団の持つ、膨大な現代アートコレクションの中から、Echos(エコー)と題した数点を展示している。病院のチャペルという場所に呼応するような、生と死、宗教にまつわる作品が並び、なんとも厳かだ。

例えば、入口には、杉本博司のモノクロプリントの「The Last Supper」(1999)つまり最後の晩餐が、アルジェリア人アーティスト、アデル・アブデスメッドによるキリストの磔刑像と向かい合っている、というように。
一般公開の2日間以外は、ケリングの社員がオフィスからオフィスへと向かう途中に横切る場所なのだそうだ。

キリスト像の前でビジネススーツの黒いシルエットが足早にすれ違い、石の床に当たるヒールの音が礼拝堂に響いているのだろうか。

40, rue de Sèvres セーヴル通り40番地  

病院の半分が充てられているバレンシアガの本社部分には、クチュールメゾンを作り上げたクリストバル・バレンシアガの往年の作品が27点展示されていた。

回廊は修復したてのクリーム色の石の天井や壁が清潔感溢れ、修道院のような佇まいだ。構築されたシルエットのバレンシアガのドレスはどれも、ここで見るとますます品格溢れ、高貴なオーラを放っているようだ。
1点ずつ、1966年、1967年などと書かれているが、その時代に限定されない、永遠のモダンがある。

いやはや、このドレスを見られたのは幸せ、と歩を進めると、病院時代には薬草を育てていたという中庭や、デザイン家具の配されたケリングの本社の受付部分などを通り過ぎて、「文化遺産」見物は終わる。

17世紀の篤志家によって、死を迎える人々のために建てられた病院。その静けさと簡素な空間美を現代に蘇らせたのは高級品業界に君臨する大企業。

時代は流れる。しかし美しいものは美しい。

40, rue de Sèvres セーヴル通り40番地  

Photography by Izumi Fily-OSHIMA

Posted by 大島 泉

大島 泉

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Izumi FILY-OSHIMA
ライター。東京生まれ。1989年に渡仏。以来、日本の女性雑誌への執筆、取材コーディネート、通訳を続けている。これまで関わった媒体は『Marie Claire』『L’Officiel』『Harper’s Bazaar』『Elle』『Figaro』などの日本版、および『家庭画報』『Frau』など。