PANORAMA STORIES

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」 Posted on 2017/10/10 市田 享馴 ウェブデザイナー、グロースハッカー パリ

正直なところ、海外への移住を考えたことはありませんでした。
フランスへ移住することになったとき、妻は周囲から「勇気あるね」と驚かれたそうです。
逆に僕を知る人たちはあまり驚かなかったのは、脚が悪いのに大学時代の春休みに旅行で立ち寄ったパリにそのまま居残ってしまい美大を中退した「前科」があったからかもしれません。
少なくとも僕たちにとって、海外移住に必要なのは「勇気」ではありませんでした。
 

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」

それは忘れもしない、2001年1月3日のことです。
その日、部屋に入って来るなり彼女は、思い詰めた表情でそれまで胸の内に秘めていた決意を、初めて僕に宣言したのです。

「わたしはあなたとパリに住みたいので、そのための努力をします。まずはフランス語学校に通います。そしてフランス語をマスターして人脈を作ります。」

もちろん「パリ」というのは唐突に出てきたわけではなく、いろいろあってのことでした。(それについては機会があればまた。)
以前から彼女はフランス語を習いに行きたがっていたのに、僕は反対だったのです。経験上、語学は現地で習う方が良いと信じていたからですが、彼女がそんなに思い詰めていたとは知りませんでした。

それどころか、彼女は一緒にパリに住むという決意を、僕にも誰にも語ることなく、この3年間密かに念じ続けてきたというのです。
なぜなら、パリに住みたいなんて言ったところで日本にはやるべき仕事もあるし、フランスの労働許可を取るのは凄く難しいし、簡単に実現できることではないと理解していたから、とのことでした。
 

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」

初めて思いを打ち明けられて、僕は内心驚いていました。

「じゃあ、本当にパリに住みたいんだね?」
「はい」
「わかった。そうしよう」
「へっ!?」

即答に、今度は彼女が驚く番でした。

実はその日の朝、フランスの友人から「ウェブ制作会社を立ち上げたのでデザイナーとして来てくれないか」というオファーのメールを受け取ったばかりだったのです。
全く同じ日だったので、鈍い僕でも気づくことができました。これは運命なんだな、と。
必要としてくれる友がいて、愛するパートナーの願いが叶えられるなら、迷いはありませんでした。
彼女の方は遠大な計画を口にした途端に実現するスピード展開に拍子抜けしていました。
その日のうちに母にフランス移住について報告すると、「いいんじゃない、行きなさい」と意外なほどあっさり。
そういえば美大の春休みの旅行で訪れたパリに残ろうかと思うと伝えたときも、母は是非残りなさいと背中を押してくれたのでした。

それからは移住準備で慌ただしくなりました。ビザ取得に備え、これを機に入籍。たくさんの必要書類を集め、担当していた仕事で迷惑をかけないように奔走しました。
 

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」

一般的に言って難しいのは、就労ビザ申請の手続きそのものというよりは、海外での就職先を見つけることでしょう。
この点、勤める会社が決まっていたおかげで問題なく就労ビザがおりました。
僕のような比較的重度の障害を持つ者が労働許可を得て海外移住するのはレアケースかもしれませんが、手続きで障害が問題になることはありませんでした。
 

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」

そうしてようやく準備が整いパリへの引っ越しを目前に控えたところで、911が起きたのです。
それはまるで、そう簡単には行かないよ、と多難な前途を暗示するかのようでもありました。

それでも僕たちふたりにとってフランス移住に対する不安は全くと言っていいほどなく、新たな環境での生活への希望が常に上回っていました。そしてそれは、今も続いています。

フランスへ移住したことについて訊かれると、よく妻はおどけて「ワタシ、ツイテキタ」なんて言っているのですが、実のところ、後ろから押してくれているのは彼女なのです。
 

車椅子目線のパリ「渡仏前夜」

Posted by 市田 享馴

市田 享馴

▷記事一覧

Kyo Ichida
ウェブデザイナー、グロースハッカー
東京出身。生まれつきのミオパチーに加え小学生の頃トレーラーに轢かれてハンデを負う。大学の春休みに欧州旅行で訪れたパリにそのまま居残り2年間過ごす。97年にルーヴル美術館ヴァーチャルツアーを制作した縁で2001年からパリ在住。
早いものでかれこれ人生の三分の一をパリで過ごす。車イスだがドラムも叩く。