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自分流塾「自分とは何かという終わりのない哲学についての考察」 Posted on 2021/01/26 辻 仁成 作家 パリ

これは永遠のテーマであろう。
自分とは何かということをぼくはもう何十年も考察してきたのだけど、そして、そのことについて、数えきれないほどの文字をこうやってタイプし続けてきたわけだが、結局、自分とは何かということを端的に言い表すことは容易なことではない、と知ることだけは出来た。
それでも、だんだん、自分とはこういうものかもしれない、とわかりつつあるのは確かで、一方、分かられたくない自分もいたりする。
ぼくは毎朝、鏡に映る自分を見つめて、まだいた、と思って苦笑する。
まだいる。ずっといる。
自分を認識しているあいだ、ぼくは生きていることになるのであろう。
しかし、そう考えると、自分とは、自分でわかる範囲の世界の一部かもしれない。
寝る時、ぼくはいつも、また寝るんだな、と考える。
夢から覚めて、起きた時、いつも、また起きてしまった、と思ったりしている。
そもそも、変な夢を見ている時、だいたいぼくは、夢だな、と思ってうすうす感づいている。
だから、夢の中で死にそうになる時、ぼくは認識している世界に向かって、起きろ、これは夢だ、と告げる。
すると、靄が消え去るように、すっと、いつも目が覚めて、ぼくはベッドの上で目覚めるという次第。
そして、ほらね、やっぱり夢だった、と苦笑している。
つまり、ぼくは自分が認識できる世界でのみ、生きている状態ということもできるだろう。
じゃあ、仮説だけど、今、ぼくが世界と呼んでいるこの世界なるものはぼくの内部にあるのではないか?

自分流塾「自分とは何かという終わりのない哲学についての考察」



現実という言葉で表されている世界は、実際には自分が頭の中に生み出した幻想だと考えて見たらどうか。
これはあり得る。大いにあり得るとある時、思いついたことがある。
実際にあるかもしれないけど、ないかもしれないものというのがこの世界にはある。
たとえば、宇宙の外側など、誰も見たことがないわけで、でも、理論としては理解しているけど、この理論だって、全部自分の中で組み立てられたものだということができるし、中とか、外とか、隔てているものも、全部、実際には自分が決定していることに過ぎない。
これはある意味恐ろしいことで、もしかするとうっすら世界を否定しているわけだから、怒る人も出てくるかもしれないが、その怒っている人さえも、実は、自分が考えている状態に過ぎないのだから、厄介である。
現実と空想は夢から覚めるか眠りに落ちる間際の状態の差程度しか、違いがないように思える瞬間もある。
ややこしい話しになったけれど、実は、そのくらい自分という存在を説明するのは複雑ということに他ならない。
そこで、ある時から、ぼくは単純に、この状況を楽しむことを選択するようになる。
怖がったり、面白がったり、感情に振り回されたりしていることは、つまり、それはそれで十分、この世界にアクセプトしている証拠だ、と思うようになった。
つまり、世界は疑わしいけど、あえてその嘘を見破ろうとはしないで、その水滴のようなものの張力の中に包まれていよう、と思ったのだ。
それが自分である。

自分流塾「自分とは何かという終わりのない哲学についての考察」



思うことの中にいる自分を大きく肯定することで、自分を維持しているという感じかもしれない。
今は、不意にコロナの世界になったわけだけど、ぼくは過酷なこの世界の日常の中にいながら、同時に、自分を通してこの状態を認識して、コロナ禍の中にいる自分も含め全て自分が作り出した現実として空想している時がある。
世界中で起こっていることを全て認識できないことがその証拠で、ぼくはどこからか届く断片を世界と呼んでいるに過ぎない。
でも、それは真実と言えるだろうか?

自分流塾「自分とは何かという終わりのない哲学についての考察」



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ぼくがなぜ、今、この文章を読んでいるあなたのことを理解出来ないのか、よく考えてみると面白い。
あなたがぼくのことを理解出来ないのがなぜかを考えながら、窓外を歩く人がなぜ、自分の世界に関係していないのかを理解する必要がある。
テレビを付けてそこでニュースを語る司会者の気持ちがわからないのも、一万キロ離れた祖国にいるたとえば母親の状況が分からないのと一緒で、自分というものは、永遠にその張力の中にしか存在しない。
その場所に垂らされた水滴の中の宇宙にいる自分のことしか、常にだれにも分からない世界、というものが、自分だということが出来るわけで、ならば、あらゆることは自分が作り出している出来事だと認識することで、その苦悩と呼ばれる煩悩から人間は解放される術を見つけることも可能なのかもしれない。

自分流塾「自分とは何かという終わりのない哲学についての考察」



ぼくはコロナ禍のこの不条理な世界を、科学や医学や政治や宗教とは別に解決していくための方法が人間それぞれの中にその数だけ潜んでいることを知っている。
自分とは何かを突き詰めていく時、自分はなぜこのように思っているのかを見つけることが出来るだろうし、その中で、自分は存在しているのは疑いようのない事実なのだと思う。
自分とは何か、という問いかけこそが、ぼくにとっては、永遠の回答なのである。  

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。