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自分流塾「逃げ場所を持つ」 Posted on 2025/03/06 辻 仁成 作家 パリ

人間にとって、生きていく上で必要なものは、逃げ場所である。
過酷な人生なのだから、あらゆることにまともに戦いを挑んでいては身も心ももたない。
そういう時のために、人間はつねに逃げられる聖域を確保しておくべきである。
誰にも言わない秘密の隠れ家である。
場所というよりも、自分を一度脱ぎ捨てることができる、何か。
人でもいいし、もちろん場所でもいい。
休憩できる環境が必要なのである。
ぼくにとってそれは、愛犬だったり、ノルマンディの田舎のアトリエだったり、たまに会う友人だったり、海だったりする。
父親がサラリーマンで転勤族だったため、生まれ故郷というようなものがない。
だから、休憩したい時は、いつも海を目指した。
海は世界中にあるので、そこに行けば、ぼくは故郷に戻ったような気持ちに浸ることができる。
浜辺に座って、水平線を眺めているだけで、癒される。
ぼくは息子にぼくの遺灰は合法的な海にまいてくれ、と頼んでいる。
お墓には入りたくない。
故郷である海に返してもらえたら、きっと休まると思う。
お前がパパに会いたくなったら、海に、来い。
そうやって、息子の肩を抱き寄せ、ぼくらは生きてきた。
思えば、あの子にとって、ぼくは逃げ場だった。
だから、ぼくは頑張っていた。

自分流塾「逃げ場所を持つ」



人間の世界は思った以上に複雑で、上下関係がすさまじく、ストレスだらけ、生きにくいことこの上ない。
それでも、生きないとならないのが人間という生き物だ。
ただ、どんな環境や世界でも、必ずどこかにあなたのことを見ている人がいる。
そして、必ず、どこかに手を差し伸べてくれる人がいる。
想像以上に残酷な世界だけれど、思ってもいないところで、想像以上に頼りになる人間がいたりする。
だからぼくは辛い時はゆっくりと周りを見回すようにしている。
冷静になって、誰がぼくを理解しているか、見極めようとする。
そのために、ぼくはいったん逃げることにしている。
まともにやりあう意味などない。
一度、自分を逃がして、この世界を改めて俯瞰してみるのだ。
心を落ち着かせ、安全な場所で、自分自身が復活するのを待つ。
消耗した精神力を回復させ、再び、立ち上がるために、逃げ場所で、目を閉じ、深呼吸をする。
時間がかかっても、摩滅した心は回復へと向かうだろう。
人間には、その人にふさわしい逃げ場所が必要なのである。
そういう場所を確保して、生きないとならない。
あなたには、そこへ逃げる権利がある。
傷ついた心を癒し、復活したら、再び戻ればいい。
今は、休む時なのである。
荷物をおろし、楽になりなさい。

自分流塾「逃げ場所を持つ」



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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。