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学校経営への道 Posted on 2020/08/23 辻 仁成 作家 パリ

学校法人帝京大学は、幼稚園から小中高、専門学校、短期大学、大学とすべての教育機関、そして医学・医療拠点を有する国内有数規模の学校法人。その教育理念に「自分流」を掲げ、「実学」「国際性」「開放性」という3つの教育指針のもと、広く社会に貢献できる人材育成に取り組んでいる。
今回は「国際性」についてお話を伺いながら、どうして学校教育に向かうことになったのか、その歴史についてもお話を伺いました。そこには教育に未来を託したある一族の長い歴史がありました。
 



 
自分の視点をしっかりと持ち、でもその殻に閉じ込まらずに広く世界を見て行動することが必要かな
 
 
今回は、帝京大学の「実学」「国際性」「開放性」と言う3つの教育指針の中にある「国際性」を中心にお話を聞かせてください。

冲永佳史氏(以下、「冲永」敬称略) 教育指針に「国際性」が入ったのは、初代の学長 冲永荘一が医師だったところから繋がってくるのですが。当時の医学というのは明治以降、西洋医学を日本が導入し発展してきたわけですが、まだまだ海外の論文が大きな力を握っている頃で、臨床医学などの研究をする上ではそれらを外してはいけないということで、やはり世界の状況がどうなっているかを常に観察しなければいけない立場にあったわけです。もう一つは、初代の学長自身が世界史や日本史がすごく好きだったんですね。とても詳しかったです。ちょうど初代学長が12歳の時に第二次世界大戦が終結したものですから、多感な時期に戦前の状態と戦後の状態の世界を見ているわけですよね。その時は幸いにも、戦前までの世界の状況というものをきちんと捉えた参考書があったものですから、社会環境、状況の変化に対して、自然と興味が湧いたらしくて。もともと社会の動きに対する関心が戦争の混乱の中で深くなっていたので、世界史を勉強することがやはり、世の中を知る上でとても大事だと、この世界をまず知ることにおいて重要なんだっていう認識があったようですね。このような切っ掛けから、世界をきちんと見ていく事がいかに重要かということが頭の中に強くこびりついていたようです。それで大学を設立する時に、この「国際性」を指針の一つにしたようです。
 

学校経営への道

 
 失礼ですが、初代学長とはお父様ですか?

冲永 はい、そうです。

 お父様はお医者様だったんですか?

冲永 はい、産婦人科の医師でした。世界史が好きだった父がこの大学を興そうと思ったのは、1966年のことです。

 そのときの、先代の決意みたいな話しになってしまいますが、ぜひ伺いたいのですが、なぜこの大学を興そうと思われたのでしょうか?

冲永 もともと帝京グループは1931年帝京商業学校を設立したのが始まりなんですが、今でいう高等学校の商業科というかビジネス専門学校みたいなものです。1931年ですからちょうど世界恐慌が終わって、不況の底から這いあがるべく各列強国が植民地を含めた自国経済圏の死守を行う流れの中で、日本もアジア圏での経済をグリップしようと動き出したところで、その流れに乗って、世の中のニーズに対応するために商業学校を創ってそれで教育活動を始めたわけです。

 それはお父様が始められたのですか?

冲永 いえ、それは私の祖父 冲永荘兵衛が始めたんです。

 じゃぁ、もともとそういう一族の教育に関する流れがあったわけですね?

冲永 そうですね、そういう流れがもともとあったんです。私の父が30歳になる時に、商業学校の経営を手伝って欲しいと祖父に頼まれて、まあ、学内でいろいろと若干混乱が生じたものですから、それで校長になり学校に携わるようになって教育の世界に足を深く踏み入れたわけです。
 

学校経営への道

※初代学長の冲永荘一氏、産婦人科医を専攻した東京大学医学部時代の実習で

 
 それまではお医者様の仕事につかれていたのですか?

冲永 そうですね。でも医者といってもまだ医学生で、民間病院などで研修を行って大学院に行って学位を取るという時期に呼び戻されて。

 では、本格的にお医者様をやられてた段階ではなくて?

冲永 当時はインターンでなんでもやらされていたので、その段階でほぼ一人前になっていたようです。

 本当はお医者様になりたかったけど、お父様に呼び戻されて、という流れがあったんですね。

冲永 そうなんです。

 じゃあ、なりたかった医師を諦め、この道を選んだ、ということですね?

冲永 本人の将来的展望としては、医学技術を身につけて小さな病院をまずは経営し、それを大きくしていければいいな、と思っていたようです。そういう事情で教育学校の経営に足を踏み入れることになってしまったわけです。が、だったらこの道でちょっと大きいことやっていこうということで、商業学校を拡大し、戦後になりますけど、学校を大きく法人全体としてある程度基本財産が増えてきたものですから、それを活用して大学の設置をすることになったわけです。やはり高度成長期に入っていく中で、人口も増えてきますし、当然人材育成の社会ニーズも増えてくるわけですから、商業学校だけでは物足りなかったところもあったのかもしれないですし、もっと自分の力を徹底的に使いこなしていこうという意思があったのかもしれません。そんな思いから大学を設置して、最初は経済学部と文学部のみだったのですが、そのあと法学部を創って、そして医学部を創ったわけです。

 自分が最初に志した医学の道を、ここで?

冲永 そうですね。志した道の専門領域を創らないわけにはいかないという思いから医学部を創った。そして規模を拡大し、社会のニーズに対応した人材育成の教育課程を創り、現在に至るというわけです。
 

学校経営への道

※創立当初は2学部、3学科、定員200名からスタートしました

 
 帝京商業学校を始められた祖父の冲永荘兵衛さんが「帝京」という言葉を考えられたのですか?

冲永 もともとは祖父の大学の先輩から学校をやってみないか、と誘われて共同で始めたんです。共同出資で。一緒に始めた先輩は弁護士なんですけど。

 その人は何才くらいの方ですか?

冲永 私の祖父は明治36年生まれですから、そうですね、当時30歳前だったと。28歳くらいでしょうか。

 現代のベンチャーみたいな感じですね。

冲永 そうですね、まさに。当時は若い人がどんどんことを興していたんですよ。それで学校を興していろいろとやっていたんです。私の父の祖父、私の曾祖父にあたる人ですが、愛媛で商を営んでいて、もともと祖父は商売人の家庭なんですが、曾祖父が大量に駅馬車の企業の株を買っていたんですよ。

 駅馬車? 今でいうとバス?

冲永 バスというか、馬で引く半鉄道みたいなもの。その路線の株を大量に買っていたんですよ。周囲では、そのことを良くは言わなくて。だって電車が通る時代に駅馬車の株を買うということですから、鉄道がひかれる時代なのにもう駅馬車の時代じゃない、と周りは想像したわけですよね。しかし、その路線を鉄道網が買うことになって、それで駅馬車の株が一気に上がった。(笑)

 なるほど。それをわかっていたんですか?

冲永 読んでいたんでしょうね。それが原資になって財団を永続することができて、それで学校経営を続けることができたんですよね。

 では、愛媛から始まり駅馬車まで繋がる冲永家の長い歴史があり、曾祖父の方が、1931年にお友達と学校経営を始めて、しかし、お友達は諸事情により離れていくわけですが、でもその後、お父様が引き継いでずっと戦後世界の流れを見て、自分の医者という志を持ちながら将来の世界的な感覚を持った人間を育てようと決意された。そして、その必要があると思い1966年に大学を興こした。それが帝京大学ということなんですね。

冲永 はい、そういうことですね。
 

学校経営への道

 
 「帝京」とはどういう意味があるのですか?

冲永 「帝京」という名前は帝(ミカド)のいる都に存在する学校ということと、文字が左右対称、シンメトリーなので、安定していて縁起が良い、という意味でつけたようですが。

 なるほど。そして今、冲永さんが理事長になられて考えるこのような時代における「国際性」ということに関して、聞かせてください。

冲永 「国際性」と「開放性」とはこれ共存しているもので、あえて申し上げれば、開放性は、座右軸をちょっと変えてものを見ていくということと、国際性はズーム・インアウトしてみる、というそんなことをイメージしていただければいいのですが。

 コロナ禍の現代、このような新しい価値観が必要な国際社会の中で生きていくということを考える上で、これから帝京大学がその国際性ということをどうやって打ち出していくのか、国際社会の中でその存在意義をどう打ち出していくのか、ということにとても関心があります。その辺のところが帝京大学のこれからの大きなカラーになると思われますが、理事長は学生たちにどのような未来を提案されようとしているのでしょう?

冲永 そうですね。ご存知の通りグローバル環境というのは基本的に、色々な価値観を持った人たちが行き来するような空間になっているわけで、しかも、動きが早くなっているので、ハンドリングしていくのは難しいと思うんですよ。ただ、そこで、溺れないためには自分なりの信念はきちんと構築しないとならないわけで、その上で、自分が見えてないこともたくさんあるということをきちんと認識して、実際それを見に行ってみる、ということじゃないですかね。で、それを通じて、自分がやれる役回りだとか、やらなければいけないことだとかが見えてくると私は思うわけで、やはりそういうことを認識して、これをきちんとやっていこういという信念を持って行動していけば、それはどんな背景を持った人たちに対しても、ある種の人としての威厳といいますか、そういうものを感じられる個人として成長していくと思うんですよ。そこが重要かな、と思いますよね。いわゆる動物的本能の領域と人間の理性との狭間の間で、やはりこう行き来するということを、体を使い頭を使いやることで、やはり人間も基本動物ですから、そういう経験を積んだり真剣に考えているということを、体全体を使ってやっていけば、ある種の威信といいますか、それが温度として伝わってくると私は思っているわけです。そういう領域に自分自身を持っていくためにも、自分だけの視点も大切ですが、その殻に閉じこもり切らずに、いろんなことを見て行動してみましょうよ、と私は強く言いたいですね。

 自分なりの信念、それはつまり、自分流ということですね。長い時間、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 

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posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。