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レストランと「仕出し屋」―コロナ禍に寄せて Posted on 2020/10/11 廣田功 帝京大学学術顧問 日本

コロナ禍の下で、レストランや飲食店が急場しのぎにテイクアウトや仕出しに進出することが報道されている。この現象が、家庭の食事の在り方を含めて、今後にどのような影響を及ぼすか分からないが、これを見てフランスの歴史におけるレストランと「仕出し屋」の関係に思いを馳せた。
 

レストランと「仕出し屋」―コロナ禍に寄せて

「レストラン」が独自の飲食店の形態として革命前後のフランスに誕生し発展したことは周知のことであろう。それに関連して、革命によって失職した貴族のお抱え料理人が革命後のパリに店を開いたという逸話がよく語られる。この理解はレストランの新しい性格を強調し、それをブルジョワの文化的ヘゲモニーの確立の現れの一つと評価する。しかしこの評価は単純に過ぎよう。レストラン誕生の意味を評価するためには、革命前の「外食」事情を考えることが必要である。

少数の貴族や富豪を除いて自宅で料理をする空間や設備を持たないほとんどの都市住民にとって、中世以来さまざまな形の「外食」が食生活に不可欠であった。18世紀になっても、事情は基本的に変わらないどころか、むしろ強まり、その発展と多様化が見られた。当時、居酒屋(Taverne)、キャバレー、オーベルジュ、「定時定食」(Table d’hôte)、ロースト肉屋、シャルキュトリー、仕出し屋(Traiteur)、パティシエ等さまざまな「外食」の場所があり、人々は身分、収入、ニーズに合わせて、それを使い分けて利用した。ただし、パティシエは、今日とは違い、18世紀末まで小麦粉とバター・油脂をベースとした塩味の料理を主に提供しており、甘味のパティスリーが販売の中心となるのは19世紀初頭以後のことである。この変化には、18世紀以降本格的に展開する「味覚革命」(嗜好の変化・「新しい料理」の出現)や甜菜糖の発明による砂糖消費の民主化が係わっている。また、「定時定食」は当時非常に普及していた食事様式であり、決まった時間、共同のテーブルで定食を提供した。この食事タイプは、「相客」のマナーが悪いと悲惨な目に遭う場所として批判の的となったことで知られている。

上記の多様な外食形式の中で、レストランの発展に関係が深いのは、仕出し屋である。仕出し屋の本格的登場は18世紀のことである。パリでは、彼らはパティシエと同じ職人組合に属し、お抱えコックを持つ邸宅以外の人々に料理を提供し、食事の楽しみを享受することを可能にした。16世紀以来食生活に対する教会の規律が次第に弛緩し、食事の楽しみが解放されていくにつれ、仕出し屋の料理に対するニーズが高まっていった。仕出し屋は、旧型の「定時定食」を嫌う富裕層のニーズにも応えた。それは商工会議所などの団体の宴会料理だけでなく、次第に都市エリートの個人の食事向けに洗練された料理を提供するようになっていった。それは上記の「味覚革命」を体現する新しい料理を採り入れた革新的なものであった。

 
 

レストランと「仕出し屋」―コロナ禍に寄せて

一方、同じ頃、新しい外食の形態としてレストランが誕生した。通説によると、最初のレストランは、1765年にパリで開業したことになっている。しかしほぼ1760~70年代には他にもいくつかのレストランが開店している。より重要なことは、最初の頃のレストランのサービスの内容である。良く知られているように、これらの店は、牛肉ベースの「ブイヨン」の専門店であり、レストランという名称は「Réstaurer(体力を回復させる)」という意味のフランス語から派生している。ブイヨンが元気回復に効果があるということで、この名称になったという訳である。ところが、1765年刊行のTrévouxの辞典によれば、当時のレストランは既にブイヨンの他に、「各種のクリーム、コメのポタージュ、マカロニ、七面鳥料理、果物のジャム等」の料理を提供しており、次第に仕出し屋の領分に進出していることが確認できる。しかも仕出し屋組合はこの進出に反対せず、進んでノウハウを提供し、レストランと協力して顧客の新しいニーズに応える道を選んだ。ブイヨン・レストランの進化は、仕出し屋の協力の帰結であったということになる。

以上の経緯は、革命後のレストランの成功を革命による歴史の「断絶」の一断面と解釈することには無理があることを示している。少なくとも、レストランの誕生は、革命前の旧体制の時代から続く長い「外食」の歴史の中において見なければならないであろう。
コロナ禍の影響でレストランがテイクアウトや仕出しに進出するのを見て歴史の時間が逆戻りしたように感じ、レストラン誕生の時代の背景の一端を記してみた。 
 

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