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記者・教師として生きる Posted on 2020/07/02 黒崎誠 帝京大学 冲永総合研究所 客員教授 日本

大学での専攻は、工業化学。入学して半年も経たないで技術屋に向いていないことが、分かったから卒業したら田舎へ帰って農業でもと思っていた。卒業直前に心配した社会学の先生が紹介してくれたのが、きっかけでマスコミの世界へ。それ以来、支局長の期間を除いて30年以上も経済部一筋の記者生活を続けることになるのだから人生は不思議だ。

新聞記者と普通のビジネスマンとの決定的な違いは昼、夜はもとより盆も正月も日曜・祭日も無いこと。私の記者時代には携帯電話等という便利なものは、無かったから深夜の1時少し前に「海外で為替相場が急変動しているから関連記事を直ぐ送れ」とか「A紙が一面トップで特ダネを書いたらしい。追いかけて記事を送れ」などいう電話にたたき起こされたことなど数えきれない。除夜の鐘を聞きながら記者クラブで仕事に追われ、正月の1日から取材に駆け回ることも。子供が起きている時間に帰ることは、年に数える程。仲間の中には8月の半ばなら事件も無いだろうと結婚式を挙げ、宿も呼び戻されても戻れない山奥に取ったが、旅館に着いたら「大型観光バスが崖から転落する大事件が近くで発生したので現場に飛んでくれ」との連絡が入っていて、花嫁を置き去りにして取材に急行した者もいた。

経済記者のテリトリーは、旧大蔵省(現財務省)、経済産業省、日銀などの経済官庁と自動車、鉄鋼、商社等の民間企業。それぞれの官庁と多くの産業界に記者クラブがあり、そこを拠点に取材する。だが、官公庁でも局長クラス等の政策決定者は、多忙を極め昼間の取材は簡単ではない。同じように大手企業のトップや、有力財界人になると更に昼の取材は難しい。仕方無いから夜回りと称する自宅へ押しかけての取材も日常茶飯事。そうはいっても簡単に自宅に入れてもらえない。居留守も使われる。中でも奥さんに嫌われたら絶対に自宅に入れない。密かに誕生日を調べて、その日に花束を持って「今日は誕生日だそうですね。日頃ご迷惑をかけているお詫び」と花束を渡す。いくら好きでも大企業の社長夫人が、買いに行きづらい「焼き芋」を手土産に持っていく。雨や雪、寒い冬の夜に外の玄関先で1時間以上も待つ。秘密会合の開かれる部屋の壁に張り付いて漏れてくる声をメモに取る。カッコ良いのはドラマの記者だけで、実態は心身をすり減らしての超過酷な世界だ。
 

記者・教師として生きる

記者時代にはカメラを持って現場取材も

 
テレビドラマでは財界人が、料亭などで豪遊する場面が少なくない。だが、料亭での会合の大半は仕事の打ち合わせを兼ねてだ。「酒のでる夜の会合は出ない」経営者も多い。自宅も豪邸どころか多くは普通のサラリーマンの家と殆ど変わらず、夜回りの記者が来ても部屋が無いと玄関先で立ち話という例も多い。「目刺しの土光」と言われた土光敏夫元経団連会長の大好物は、イワシの干物。昼は社員食堂で社員と一緒に昼食を食べる経営者も多く、生活も質素。応えづらいことや意地悪質問にもニコニコ応じ、人柄も円満。高級官僚も同じで、ドラマに出てくるような悪徳な経営者や高級官僚は皆無に近い。彼らを支えているのは「我々が日本経済を支えている」との強い責任感と自負だ。

大半の経営者は良く勉強していて「蔵書で家が傾いた」経営者も少なくない。駆け出し記者時代に新日鉄(現日本製鉄)の社長に「今度担当になりました」と挨拶に行ったら「若い君らはマルクス経済学を学んだからDas Kapital(資本論)は原書で読んだろう。俺も読んだけれど翻訳本より原書の方が分かりやすいよな」と、言われて日本語版を数ページしか読んだことが無く赤面した。日本の代表的な大企業のトップ、財界人や霞が関の高級官僚たちの取材に明け暮れて、日本経済の動向を伝えていると自負していた。それが大間違いと知らされたのは、支局長として宮崎県に赴任したことだ。
 

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NHK『視点・論点』で日本の中小企業の底力を解説

 
宮崎県に1部上場企業は、地元の銀行を含めて数社しか無い。経済の主体は、中小企業と農業に漁業だ。「小さな部品ですけどこれが無いと日本の先端産業の生産が止まります」という町工場の経営者と従業員は強い誇りをもって働き、「農林大臣賞を受けた」畜産農家、「日本で最初の初カツオを釣り上げている」漁船員。どの顔も自信に溢れ、輝いていた。「縁の下の力持ち」として日本経済を支えているのは、この人達だと痛感し人生観が変わった。編集委員として本社に戻ると幸いなことに取材で親しく付き合った大蔵官僚が、中小企業金融公庫(現日本政策金融公庫)の副総裁に天下っていた。そこで月曜日の朝7時から開かれる勉強会に入れてもらい、中小企業問題を必死になって勉強した。通勤に1時間半もかかるだけに楽ではなかったが、帝京大学の教師として招かれることになるのはこの勉強会のお蔭だ。

大学では新しく始まったライフデザインの教科書づくり、中国との共同研究。そして地域経済学科の起ち上げと、記者時代の何倍も学び働いた。その証拠に大学に移った5年後に自宅の書斎の床が、抜け落ちた。辛いことや嫌なことが、なかったと言ったら嘘になる。だが、希望の企業に就職できた学生と手を取り合って喜んだことも数えきれない。ゼミ生との飲み会、箱根駅伝、ラグビーの応援など学生と一緒に60歳を過ぎて青春を謳歌した。中でも中国との共同研究は、中国政府や大学との研究の特権で普通では行けない多くの地域に出向いた。北朝鮮との国境地域の数日にわたる調査は、大きな声を出せば畑で働く北朝鮮の人に聞こえるほどの近さ。ここで目にしたのは、北朝鮮の人々の貧しさと中国への脱走を防ぐため国境の山の樹木が全て伐採されている異様な風景だ。先端産業の工場が林立する工場街と若い女性が、ミニスカートで闊歩する大都会の一方で貧しく開発から取り残された一部の農村地帯。中国の明と暗も自分の目で見、肌で実感できたことも貴重な経験だ。
 

記者・教師として生きる

ゼミ生と駅伝、ラグビーの応援に

 

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中国との共同研究は10年以上前からはじまり、現在も続いている

 

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Makoto Kurosaki
帝京大学 冲永総合研究所 客員教授