JINSEI STORIES

真夜中日記「今、あなたは人生が楽しいのですか?」 Posted on 2021/10/12 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、実は軽く衝撃的なことがあった。
この日記にもたびたび登場していた、カフェのギャルソン、クリストフ。
日本が大好きで、いつもぼくに向かって、通りの反対側から手を振ってくれた、クリストフ!
「ヨシー、ヨシー、元気かい?」
なぜか、最後まで、ぼくのことを「ヨシ」だと思い込んでいたクリストフ。
息子が自慢で、いつも子供たちの自慢話しばかりしていたクリストフさんが、
先日、カフェに行ったらいないので、店主のジャン・フランソワに、
「クリストフは?」
と訊ねたら、
「やめたよ」
と言われて、ええええええ、となった、父ちゃん。
うわあああああ、ショックだぁ!!!

この後に、再掲載した日記は2020年6月18日に掲載したものだけど、とっても、好きな日記なので、ここに再掲載をさせてもらいたい。
読んで頂ければ、幸甚なのである。
なぜなら、働くことのできない苦痛の方が辛い仕事をすることよりももっときつかった、ということを、このクリストフがぼくに教えてくれたからである。
それはつまり、コロナ禍の中で、ぼくがたどり着いた一つの答えでもあった。
やっぱり、人間はなんだかんだ言っても、毎日、働いて、ご飯をたべて、仲間や家族と笑顔で語らい、苦しくても、力を合わせて生きていくことの大切さに尽きる、という日記なのだから・・・。



以下、再掲載日記です。

某月某日、「今、あなたは人生が楽しいですか?」と、どこからか声が聞こえてきた。
ぼくは仰向けになり、天井を見上げた。
窓から差し込む光りが天井を彩っていた。
ぼくはいったい何が楽しいのだろう、と思った。
ぼくの喜びは何だろう、と自問をした。すぐに思いつかなかった。
昔は野心があったし、欲しいものがあった。自分は今、幸せじゃないのかもしれない、と気が付いた。
そうだ、それだ、と思った。人のことばかり励ましてきたけど、自分はどうなんだ、と思った。



そういえば昔、たくさんあった欲望が今はない。
食欲も、性欲も、出世欲も、消えてしまっている。
「今、あなたは人生が楽しいですか?」
これはどういうメッセージだろうと思った。
人生の楽しみってみんなどうやって見つけているのだろう、と思った。
残った力で携帯を掴み、「今、あなたは人生が楽しいのですか?」と数人の知り合いに送ってみた。
一時間しても誰からも返事が戻ってこなかった。
「辻が危ないことになっている」と思われたのかもしれない。
こういう質問に「楽しい、最高」と答えられる人間なんていないのかもしれない。
ぼくはぐずぐずしていた。ベッドで寝がえりを打ち、違う違う、と考えてしまった。
携帯の電源をオフった。



夕方、息子がドアをノックしてきた。
「パパ、晴れてるから、散歩でもしたら?」少し、身体が動くようになったので、確かに快晴だし、息子の言う通り、外出しよう、と思った。
少しずつ、我が街もロックダウン以前の活気を取り戻しつつあった。
閉まっていた店もほとんどが再開を果たしていた。
3ヶ月ぶりにクリストフの店が開いているのを発見した。
おお、と思った。この日記でも最多の登場を誇るカフェである。
ロックダウンになる前まで、ぼくはとにかくここで毎朝コーヒーを飲むのが日課だった。
クリストフは日本で働いた経験もあり、ちょっとだけ日本語を話す。
「お元気ですか?」「美味しいですか?」「あなたのお名前はなんていいますか?」
3月17日以降、ずっと会ってなかった。
あの日、不意に世界が閉じたので、連絡先も知らないし、音沙汰もなかった。
近寄り、中を覗くと、カウンターの中で働くクリストフがいた。
ああ、懐かしい。
すると、クリストフがぼくに気が付いた。道の反対側にいるぼくを見つけたのだ。
次の瞬間、満面の笑みを浮かべ、
「お元気でしたか~」と日本語で叫び声を張り上げた。
お客さんが一斉にぼくを振り返った。
そして、クリストフが中から飛び出してきたのである。
まだみんな社会的距離をとらないとならない時期だというのに、彼がぼくの肩を叩いて、手を差し出した、ぼくもその手を握りしめていた。
涙が溢れそうになったけど、ぐっと我慢をした。
「おめでとう、待ってたよ」
とぼくは言った。

真夜中日記「今、あなたは人生が楽しいのですか?」

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真夜中日記「今、あなたは人生が楽しいのですか?」



「嬉しいな、また会えて、嬉しいな。ぼくは嬉しいんだ。ここに戻って来れて。またみんなのためにコーヒーを淹れたり、料理を運んだり出来ることが」
クリストフが笑顔で、本当に満面の笑みで、今、こうして、ここにいて、仕事が出来ることを喜んでいると力説しはじめた。
3ヶ月、家で息子と漫画ばかり読んでいた、と彼は言った。
最初はロックダウンもよかったけど、働かないでも国から補償してもらえたし、でも、そうじゃないんだ、そうじゃなかった、と彼はもう一度言った。
「こうやって、働いて、大変でも、きつくても、食事をサーブして、皿を洗って、みんなと天気のことやスポーツの話しをして、終わったらビールを飲んで、常連のあなたたちとこうやって握手をして、そういうことが自分の幸福だったことに気が付くことが出来たんですよ」
ぼくは瞬きさえ出来なかった。
目を見開き、この男を見つめた。
今、クリストフが喋っていることが、ぼくが探し求めていた答えだったからだ。そこで、ぼくは小さな声で彼に訊いてみた。
「今、あなたは人生が楽しいですか?」
クリストフはきょとんとした顔をして、ぼくの顔を覗き込んだ。
数秒の真空がうまれた。
次の瞬間、クリストフが大笑いをして、ぼくの肩をバンバンと叩いたのである。
「ああ、今が最高だよ、人生が楽しい。ぼくは今、人生が楽しくてしょうがないだ」
クリストフに肩を抱きしめられて、店の中へ入り、常連たちの真ん中でビールを飲んだ。
とっても美味しいビールだった。
クリストフがいて、オーナーのジャン・フランソワがいて、給仕のステファニーがいて、名前は知らないけど、この辺の常連たちがいて、そこにぼくの場所もあって。
そうだ、その時、ぼくは幸せだった。
幸福とはこういうものだ、とぼくは思った。

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