JINSEI STORIES

退屈日記「愛犬の脱走。ぼくも一緒に追いかけたが、見失ってしまった」 Posted on 2022/06/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、昨日のことだが、ぼくは三四郎を息子に預けて、日曜日でも開いているスーパーまで水とか食料品を買いに出かけた。その途中のこと、交差点に車を止めていると、
「待て~。待つんだ!」
という大きな声が聞こえた。
日曜日なので、あまり、車が走っておらず、声はよく響き渡っていた。
声のする方を振り返ると、一匹の子犬、犬種までははっきりとしないが茶色の子犬が歩道をものすごい勢いで走っていった。
その後ろを数人の男性が大騒ぎしながら追いかけていた。
犬は首輪をしておらず、若い飼い主がリードを持っていた。たぶん、なんらかの事情で首輪を外した瞬間に逃げ出したのだろう。
飼い主が大きな声で追いかけるから、いっそうパニックになって、どんどん、遠ざかっていくのだ。
異変に気付いた周囲の人たちも一緒に追いかけているようだった。

退屈日記「愛犬の脱走。ぼくも一緒に追いかけたが、見失ってしまった」



たまたま日曜日だったので、それほど交通量がなかったが、実は、交通量がない分、車は飛ばしている。
一台が交差点の中央で子犬を跳ねそうになった。ひや・・・。
信号が変わったので、ぼくは車を発進させ、とにかく、一緒に追いかけた。というのは、犬が早すぎて、飼い主らはどんどん引き離されていくのである。
ぼくはまもなく、追いつきそうになった。
逃げ去る子犬の行く手にカフェがあり、ギャルソンが店の外にいたので、窓から顔を出し、大声で
「すいません。その子、捕まえて! 脱走したんです!!!」
と叫んだが、不意の出来事なので、そのギャルソンさん、要領を得ない。
脱走子犬はカフェも通り越してしまった。
ぼくは先回りしようと次の交差点に向かった。すると、ちょうど、交差点のところに犬を飼っているマダムがいた。
脱走子犬はマダムが飼っている大型犬の前で一瞬止まったのだ。やった、今だ。
「マダム!! その犬は飼い主から逃げたんです。捕まえて!!!」
でも、こんなこと不意に言われて、すべてを理解出来る人間なんかいるだろうか? 
マダムはぼくを見たけど、「え?なんですって?」と言い返しただけだった。
その間に、子犬は再び走りだし、その交差点を反対側へと渡ってしまったのである。
「あああ!」
ぼくの追跡はそこまで、信号がかわり、後ろの車にクラクションを鳴らされてしまった。とりあえず、車を停車させたが、もう、その時には、犬も飼い主も、追いかけている人たちの姿は見えなかった。声さえ届かなくなっていた。
犬は傾斜する路地の上の方へと駆け上がっていき、消えた。
ぼくは胸が痛んだ。
あれが、三四郎だったら、と思ってしまったからだ。

退屈日記「愛犬の脱走。ぼくも一緒に追いかけたが、見失ってしまった」



こういうことはありがちだろう、と思った。
フランスはペットの首輪を外して、歩かせる人が多い。
海岸など一部地域によっては首輪を外してもいい法律がある。もっとも、ダメな場所でも、飼い主の判断で首輪を外されている犬が多い。
大型犬とかでも、平気で走り回っている。
人を噛む事故とかあるだろうに、とは思うが、その辺はフランスなので、犬には寛容なのだ。飼い主の判断ということになっていて、誰も何も言わない。
なので、もしかすると、普段なら、首輪を外しても大丈夫なわんちゃんだった可能性がある。
ところが今日はなんらかの事情でパニックをおこし、走り出してしまった。
大勢で追いかけたから、逆にパニックをあおる結果になった。
あの若い飼い主は、今、どういう精神状態にいるだろう。
パリ市内で行方不明になった犬・・・。首にチップが埋め込まれているから、捕獲した人が、最寄りの獣医さんのところに届ければ親元に連絡がいく仕組みになっている。
しかし、一番、心配なのは車にはねられることだ。
犬には信号の意味が分からない。運転手も犬が小さすぎて気づかない可能性がある。轢かれたら、一巻の終わりだろう。
ぼくがあの若い飼い主の立場だったら、もう、気がおかしくなっているかもしれない。
急いで買い物をし、急いで家に帰って、三四郎を抱きしめた。

退屈日記「愛犬の脱走。ぼくも一緒に追いかけたが、見失ってしまった」



今朝の日記で書いたジャン・レノとスカーレット・ヨハンソンの子犬エルメスは首輪とハーネスと両方付けている。
けれども、原っぱでは放し飼いであった。
首輪には電話番号が印刷されているし、ハーネスには番号付きのメダルも付けられてあった。
ぼくはこの都会で三四郎の首輪を外す勇気はない。三四郎は臆病だし、遠くには行かない犬だけれど、何が彼をパニックにさせるかわからないからだ。
道に飛び出して、車にはねられることは普通にあるだろう、と思った。運転手のせいには出来ない。
ぼくが彼を自由にさせるのは、地元の浜辺だけにしよう・・・。
逃走する子犬の姿が目に焼き付いて離れない。

つづく。

今日も読んでくださり、ありがとう。
胸が痛いですね・・・。あの子犬の無事を祈っています。
お知らせです。
まずは、父ちゃんの日本公演のチケットが発売になりました。
8月8日、大阪ビルボード、12日は横浜ビルボード、頑張りますね。
NHK・BSの新作「ボンジュール、辻仁成の春ごはん」の本放送は6月17日に迫ってきました。HPもリニューアルされた模様です。
6月30日はマガジンハウス社から、いよいよ「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」が発売に。愉しみ~。韓国の出版社から早くも出版化のお誘いが!!!
そして、
6月26日に、地球カレッジ、前期エッセイ教室の最終回、総まとめ編です。
エッセイを書くのが大好きな人、文章家を目指しているあなた、ブログをやっている皆さん、ぜひ、ご参加ください。課題もあります。
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