JINSEI STORIES

滞仏日記「アイーン」 Posted on 2020/03/31 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、志村けんさんがお亡くなりになった。志村けんさんは、志村さんでも、けんさんでもなく、ぼくたち日本人にとってずっと「志村けん」だった。テレビがある部屋にいつもいる変なおじさん、或いは、バカ殿だった。日本人にとって、血が繋がっていないのに、遠い親戚のような存在で、いつもバカばかり言ってくすくすとみんなを笑わせてくれる優しい存在であった。あるいは、国民的美少女という言葉があるのだから、彼はまさに国民的お父さんだった。その人が新型コロナのせいで亡くなった。お年寄りから子供たちまでほぼ全ての日本人の心に空洞を作った。それはいつも、いかなる時にも、地震の時にも、つなみの時にも、台風が来ても、いつだってお茶の間にいて励ましてくれる人だったからだ。仕事場で嫌な思いをして帰っても、学校でいじめられても、誰かにふられた時だって、テレビをつけるとそこに必ずいて、「だいじょうぶだぁー」と言ってくれる数少ないもう一人のお父さんだった。それなのに、呆気なく亡くなられてしまった。コロナ感染者は棺もあけられないというのだ。親族も会えない。重篤になった患者はここフランスでも誰とも会わずに集中治療室からそのまま搬送され荼毘に付されてしまう。国民の父なのに、誰も別れを言うことができない。このようなことがこの新型コロナの恐ろしさなのである。昨日の全世界の感染者数は73万8千人で、そのうち3万5千人が亡くなられた。その3万5千人の一人が志村けんさんなのだという衝撃は計り知れない。

滞仏日記「アイーン」



ぼくが15歳の時に、志村けんさんはドリフターズの正式メンバーになった。ぼくはその日、新しくメンバーになった志村けんさんをいかりや長介さんがからかいながらも紹介しているのをテレビ越しに観た。なんか、さえないお兄ちゃんだなぁ、大丈夫かこの人、というのが失礼ながら最初の印象だった。ところが「8時だよ全員集合」のワンコーナーで歌った「東村山音頭」で一躍有名になり、その後は破竹の勢い。加藤茶さんとの「ヒゲダンス」、さらには「カラスの勝手でしょの替え歌」で国民の心を鷲掴みにした。「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」などその活躍は枚挙にいとまがない。なぜかその時の光景がいまだに脳裏に焼き付いて離れない。それ以降、志村けんさんは日本中のお茶の間に謙虚に居座るようになった。あの独特の恰好で…。

志村けんが演じた隣近所にいそうな面白いおじさん、またはお父さんは、そのまま日本の父性の姿でもあった。バカばっかしやっているけれど、その時々で優しいこともさりげなく言うおじさん。日本のおじさん、日本のお父さんであった。その人を、新型コロナは残酷なことにこの世界からあれよあれよという間に連れ去ってしまったのだ。この感染病の恐ろしいところはこうやって不意に大事な人をこの世界から連れ去ってしまうことである。志村けんさんはお茶の間にもういない。この悲しみとロスは日本人にとって大きな教訓となった。これは自分たちの家のお茶の間でも起こり得ることなのだ、と肝に銘じることになった。

今日の夕飯は冷蔵庫に残っていた高菜を使ってチャーハンを作り、息子と仲良く食べた。
「ねぇ、志村けんって知ってる?」
ぼくは訊いた。知らないよ、と息子は言った。
「だいじょうぶだぁー、ってわかる?」
真似しながら言うと、息子は鼻で笑い、パパ、面白すぎる、と言った。
「アイーン」
右手を喉の近くにおいて、真似してやった。息子が噴き出した。何度もやった。やめてよ、パパこそ、大丈夫か、と息子は言った。
「知らないの? なんだチミはってかぁ? ええ? はい、わたすが変なおじさんです。だっふんだ」
「パパ、あの…」
「あんだって?」
「パパ、やめてよ!」
「おこっちゃやーよ。あんだ、バカやろう~」
「パパ、もうやめようよ、心配になるから」
「アイーン」
息子は笑わなくなった。ぼくは目元を手で押さえ、
「志村けんッて人がね、新型コロナで死んだんだ。日本人ならみんな知っている人だよ。ババと恒ちゃん(弟)と死んだジジと4人家族で昔よく観てたよ。そうか、チミ、知らないのかぁ」
 と最後は志村けん風に言った。
「うん、知らない。ごめんね」
ぼくは思い出した。
「最初はグー」
じゃんけんのポーズを真似てみた。息子がぼくをじっと見つめてくる。
「じゃんけんの、この、最初はグー、ってのを広めた人なんだよ」
息子の顔がわずかに緩んだ。
「へー、そうなんだ。それは凄いね」
ぼくは泣きそうになった。