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滞仏日記「ぼくらが再び着飾って外に出る春を待ち」 Posted on 2020/04/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、渡仏して18年になるが、まさかこんなに日常がやって来るとは思ってもいなかった。全てのカフェやレストランが閉鎖され、外出も制限され、華やかなものが全て消え去ったこんなに質素なパリを目の当たりにするとは思ったことが無かった。けれど、これが今のパリの現実なのだ。ファッションや文化や美食の都と言われたパリがこれほど沈鬱な顔をして沈んでいるのも、シャンパンフラッシュで世界中の観光客を興奮させたあのエッフェル塔がこれほどひっそりと佇んでいるのも、全てがはじめて見る光景であった。



突然、あらゆる価値観が一変してしまった。戻りたいと思っても、もう戻ることの出来ない場所にぼくはいる。外出証明書にサインをし、マスクとサージカルグローブを付けて、外に出た。一日一度、法律で義務付けられている一キロ以内一時間以内の散歩がぼくの日課だ。通りはいつもと何も変わらない。吹き抜けるさわやかな風、差し込む春の光り。けれどもすれ違う人々はマスクをし、遠ざかるように近づいてくる。馴染みのカフェはどこも閉まっており、光りが消え、人懐っこいギャルソンの姿もない。目を閉じ、過去を懐かしんでいると、ツジー、という声が一体に響き渡った。慌てて振り返ると、目の前の建物の窓辺からピエールが顔を出した。彼は窓辺に腰を下ろし、元気か?と訊いてきた。ワイングラスを掴んでいる。ぼくらはたわいもない世間話しをした。最近、仕事が舞い込んだ。よかったじゃん。何の仕事? 曲作りだよ。



すると反対側の建物から、ツジー、ピエール、と声がした。お馴染み哲学者のアドリアンであった。大男で、太っていて、頭に毛が無くて、でも映画俳優みたいな渋い顔をした南ア大学の博士だ。行きつけのバーの常連である。いつもの顔ぶれが揃った。ピエールの家の下に、モロッコ人が経営するバーがあり、たまり場であった。するとアドリアンが、ちょっといいかと言って一度部屋の中に戻り、何か本を掴んで持ってきて、こともあろうに、大きな声で詩を朗読しはじめた。「春が来た」と彼は叫んだ。「その精霊の肉体は、ぼくを眠くさせ、この空気の中を漂うのだ」とアドリアンは詠んだ。その大きな声が通り中に反響する。そうだ、とピエールが笑顔で合いの手をいれた。
「ぼくは夢に耽っていたというか、古代の夜が降り積もってうまれたこの問いかけ、その樹木のように夥しい方向に枝分かれするもの、そしてぼくが自分自身に偽りのバラ色の理想を捧げたというのだ」
アドリアンは学生時代、演劇部に在籍し一時は俳優を目指していた。屋根裏部屋の窓があき、若いカップルが顔を出した。ぼくは見上げて、手を振った。最近、引っ越してきたフレンチブルドックの飼い主だ。

アドリアンの声が響き渡る。軽く100キロは超えた体躯から繰り出す低いテノール。まるで古代ローマの円形劇場のようだった。ぼくは両手を広げてみた。まるでダンサーのように。ピエールの側の一階の窓が開き、アンティーク屋のディディエが顔を出した。そうか、ここが彼の家だったのだ、とはじめて知った。ディディエが甲高い声で、やあ、日本の友よ、と告げた。この人は前歯がない。アドリアンを見上げ、微笑んでいる。ぼくはアドリアンを振り返った。

いくつかの窓が開き、人々がアドリアンの朗読に耳を傾ける。必ず、春が来る。このパリに再びぼくらの力で光りを取り戻そう。時間がかかっても、みんなで通りに出る日を待ち続けよう。再び着飾って通りに出よう。再びおめかしをして恋に落ちよう。再びみんなで集まってグラスを傾け合おう。約束だ、それまで、家で時を待とう。街路樹の緑を、路上の可憐な春の花が咲き誇るのを、とアドリアンが古代ローマの俳優のように声を張り上げた。ぼくは拍手をした。誰もが笑顔であった。アドリアンは朗読し終えると小さく会釈をして自分の家の中へと消えた。ピエールがぼくを見下ろし、言った。
「ツジー、退屈だな。でも、この退屈にはきっと意味がある。今、神はぼくらに考え直す時間を与えているんだ。いろいろなことをぼくらは考えないとならない」
あの呑気なピエールが珍しくまともなことを言ったので、ぼくとディディエがふきだしてしまった。それが春というものなのだ。

滞仏日記「ぼくらが再び着飾って外に出る春を待ち」

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