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退屈日記「死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい」 Posted on 2020/06/12 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、この世界はダメだな、と、どうしようもない世界だな、と思う時、ぼくは必ず自分に向けてこう告げるようにしている。「自分が変われば世界は変わる」この一言は大きな意味で自分を励ますものになる。あいつは信用できない、自分の親はダメだ、友だちなんかいない、と全否定したくなる時に、ぼくは「自分が変われば世界は変わる」と自分に向けて言う。この世界の不満を外に向けている時、実は外がダメなのじゃなくて自分が煮詰まって追い詰められているような場合が多い。自分が何でもうまくいってる時には、あいつがダメだとか、あいつがアホだとかは口に出ない。全否定が始まって、それが続いている時は、ちょっと待てよ、と立ち止まり、「自分が変われば世界は変わる」と自分に言い聞かせるようにしている。まず、自分を変えてみる。昨日、夕刻にエッフェル塔を見上げながら、自分が変われば世界は変わるんだ、と自分に向けて呟いていた。

退屈日記「死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい」

退屈日記「死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい」



雲の切れ間から光りの梯子が何段も放射線状に降りていて、そこに何か啓示が潜んでいると思った。この思ったというのは、実は気づいたということである。それを勝手に天のメッセージだといい風に解釈出来た自分の手柄なのだ。いろいろなことにいい意味を見つけることのできる自分でありたい。ぼくの横を無数の人が通り過ぎていったが、超不思議なことに、あの雲の切れ間から降り注ぐ光りの梯子を見つけていたのはぼくだけだった。他の人は地面を見つめ、時間に追われ、足早に移動していた。気づかないのだろうか、と思った。誰かが降りてくる、と思った。その人たちはこの星を救いに来たのだ、と思って長いこと見上げていると、ぼくの横に、誰かが立った。ちらっと振り返ると、ホームレスのお爺さんだった。
「君には見えるのかね」
と言った。来た来た、とぼくは嬉しくなった。何年かに一度、こういうシグナルが届く。ぼくはその人を振り返らず、見えますよ、たくさん梯子が降りてきました、と言った。もしかしたら、日本語で言っていたような気がする。あるいは思っただけかもしれない。するとその人がこう言ったのだ。
「人間はもったいないことに、自分自身を鋳型にはめて、時間の奴隷になって、忙しい忙しいといって、忙殺されている。お金が無い、仕事がない、夢がない、愛がないと言う。そして、全部、周囲のせいにして、世界が悪いと言い続ける。政治が悪い、親のせいだ、友だちがダメだ、でも、そうじゃない」
ぼくはその人を振り返った。その人はすでに歩き出していた。10年に一度、こういう人がぼくの横に立つのだけど、そういう時をぼくは逃さないようにしている。ここには意味があるのだ、めっちゃ大きな意味がある、と思い込むようにしてきた。

退屈日記「死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい」



意味は探さない。意味はある日、気が付くことだから、つねに心を開いてそれが降りたつのを待つのがいい。ぼくらに与えられた人生は限りがある。なぜ、限りがあるのだろう、と小さい頃に考えたことがあった。限りが無いと何もする気がおきなくなるからだ、と確か幼稚園児くらいの時に導き出した結論はいまだぼくの心の中心に刻まれたままだ。そしたら、嬉しくなって、じゃあ、この一生を楽しもうと思った。それがぼくの出発だった。こうやって啓示を見逃さないことはとっても大事なことかもしれない。それはいつも違った形でやってくる。前途多難な時とかに多く出現する。絶望の淵に追い込まれた時、たとえばぼくがシングルファザーになった時にもこの光りの梯子がエッフェル塔の上から降りていた。死にたいと思ってもいいよ、と聞こえた。でも、生きなさい、ということだとなぜかぼくには聞こえていた。

死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい、でいいのである。

退屈日記「死にたいと思うのは人間だから、でも、生きなさい」

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