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滞仏日記「まだ多くの人が愛のない世界で漂流をしている」  Posted on 2019/05/06 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、最後に恋をしたのはいつだろう、と思った。もうずいぶんと長く恋はしていない。恋と愛の違いは何ですか、とよく聞かれたけど、今の僕に言えることは「恋というのは失うことで、愛はたぶん得るもの」である。もっとも、これは還暦を迎えようとしている僕だからこそ思うことで、15才の息子に押し付けるつもりもない。15才と、35才と、55才と、75才の恋が同質であるはずはない。このように、恋というのは年齢によってとらえ方が違うものだと思う。個人的な感覚だけど、僕はもう恋には興味がない。愛には近づいてみたいと思うけれど、恋は出来る限り遠ざかりたいものの一つだ。また、この愛というものも定まった形のある概念ではないので、そこへ向かって頑張って突き進むというのは難しかったりする。なんとなく、気が付くと愛に接近していた、ということはあるかもしれないが、この人生の海原の先に愛があるのかどうか不安にならない日はない。ともかく、恋とか愛とか、そういうわかりやすい定義に、僕はもう振り回されたくはない。

久しぶりに書いた小説をジャンル分けしろと言われるならば、恋愛小説ということになる。もっとも苦手な恋と愛の小説なのだ。「冷静と情熱のあいだ」や「サヨナライツカ」を書いた若い頃の自分を、若いなぁ、と鼻で笑ってしまいそうになるのを堪えながら、20年ぶりに恋愛小説に向かった。この20年間、恋愛に関わる作品はいくつか書いたけれど、主題は恋愛ではなかった、というのか、恋愛は全ての主題の中に含まれているので、ことさらそこだけを書かず、はぐらかしてきた。でも、この新作は、久々、恋愛小説のストライクゾーンのど真ん中にボールを放り込んだ作品だと言える。カーブでもシュートでもなく、超速球のストレートを・・・。「冷静と情熱のあいだ」や「サヨナライツカ」の時代って、国も人も世界も、ある種「酔っていた」時代であった。僕もそういう中にいて、実際、まだ恋に翻弄されていた。その時代のうねりや渦の中で書いた小説だった。あれから20年の歳月を経て、僕は人間として少なからずのことを経験し、それが今までにない自分の文体や思考や思想や恋愛観を構築した。うねりや渦の外に出て書いた小説が「愛情漂流」である。酔いからさめて、愛とは何か静かに向き合った、愛や恋について自分なりにようやくわかり始めたこの時代だからこそ書くことの出来た、作品かもしれない。
 

滞仏日記「まだ多くの人が愛のない世界で漂流をしている」 

二組の若い夫婦が物語の中心にいて、小さな亀裂がきっかけとなり、彼らの人生は翻弄させられる。彼らは大陸から離れ、それぞれの海原で溺れそうになる。いわゆる不倫ドラマの要素もあるけれど、そういうことが主題の作品ではない。誰もが迷い溺れかける愛という海原を漂流する4人の日本人を描くことで、僕は今という時代を切り取り、この時代だからこその恋愛観を描いてみたかった。僕は恋や愛の経験者として登場人物たちの人生に様々な角度で想像できるもっとも過酷な哲学を叩きこんでいった。あらゆる読者がこの四人のどこかに共感し、同質の悩みを同時代的に共有できるようにしたかった。どの登場人物に共感できるか、反発するかで、読み方が異なる一冊を作りたかった。これが愛です、というものはない。これが幸福です、というものもない。これが人間です、という決まりはない。まだ多くの人が愛のない世界で漂流をしている。 
 

滞仏日記「まだ多くの人が愛のない世界で漂流をしている」