JINSEI STORIES

滞仏日記「ユッケジャンビビンバ」 Posted on 2019/08/15 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、日韓の仲が冷え込んでいるというのか、僕の知る限り、かつてないほどに悪くなっている。今回のこのムードは簡単によくなるとは思えない。僕はこれまでに多くの作品が韓国で翻訳されてきたのでこの関係の悪化は実に切ないが、この関係が改善されるのに、気が遠くなるほどの時間を要するだろうと認めざるを得ない。

でも、この冷え込んだムードの中でもどうしても食べたいものがあった。15区にあるミュンカというレストランのユッケジャンビビンバである。よく焼いた石で混ぜ炒めした米のカリカリっとした触感と辛みがたまらない。食べたいけどなんとなく食べに行きにくいムードについて息子に話すと、「パパ、何をくだらないこと言ってるの? ユッケジャンビビンバになんの罪があるんだよ。ユッケジャンビビンバを食べたいと思うパパの気持ちのどこに非難される問題があるの」と言われてしまった。この行きにくいという空気がそもそもよくないということであろう。でも、そう思っている日本人も韓国人も今は多いような気がする。「だからこそ行けばいいじゃん。いつもの笑顔で、やあ、でいいんじゃないの? 彼らはパパを入店させないわけ? 人間と人間の問題だから、嫌いな人は食べなきゃいいし、美味しいと思った人は美味しいと言えばいいんだよ。人間同士なんだよ。そういう迷いが世界を委縮させてるんじゃないの?」
ということでアメリカ帰りのアレクサンドル、リサを誘って、四人でミュンカへ赴くことになる。

僕の息子にとって親戚のおばさんのような中国人(メイライ)がいる。この人のことは前にも日記でふれたが、息子のことをほんとうにかわいがってくださる方で、この時期、家族で札幌を旅行している。辻版札幌ツアーマップを手作りして渡した。でも、ある日、あなたがたはどちらの出身ですか、と聞いたら、中国の中心部という返事。でも、知りたかったのでしつこく聞いたら「南京の出身よ」と言った。彼女は歴史的なことがあるから言いたくなかったのかもしれない。それを強引に言わせたのは僕で、一瞬、気まずい空気が流れた。結局、メイライが話題をそらした。でも、どんなに忙しい時も、僕ら親子を大事にもてなしてくれるし、一番いい席に座らせてくれる。僕らは週に三回はメイライに会いにいく、そうだ、食べに行くというよりも会いに行く。

ミュンカのユッケジャンビビンバは相変わらず美味しかった。従業員の子たちはいつも通りだった。いつも通りなのに、僕には今までよりも笑顔に思えてならなかった。息子が「あたりまえじゃん」と言って笑った。「それはパパが一人こだわってるから、そう思うんだよ。日韓の仲を悪くさせているのはパパなんだよ」息子はいつも容赦ない。僕らは一番いい席(それは僕が勝手に思い込んでいる一番いい席に過ぎない)に通された。途中、これはお店から、と言って、チャプチェを一皿プレゼントされた。これがまたとっても美味しかった。「お店からだってよ、サービスだ」と僕が言うと、息子が「ここは常連客にはいつも何か出してるよ。何も特別じゃないんだよ。パパ、ちょっと冷静になりなよ。普通にできないの?」
リサが笑った。アレクサンドルはアメリカ留学がどんなにひどかったかを一人語っていた。二度とアメリカなんかに行くものか、と僕らの前で宣言していた。息子もリサも笑っていた。そこに僕らのいつもの光景があった。
 

滞仏日記「ユッケジャンビビンバ」