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滞仏日記「パパの職業はなに? と息子に聞かれた」 Posted on 2019/12/15 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝起きたら、パパ、と息子に呼び止められた。
「試験は終わったし、クリスマスは近いし、今日、買いに行った方がいいんじゃないかな?」
「何を?」
「エレキギターだよ」
試験が終わったら、クリスマスと正月のお年玉と一月の誕生日プレゼント分を全部あわせてエレキギターを買ってあげると約束していたのだった。成績は? いいと思うよ。なるほど、じゃあ、約束だからな、買いに行くか。
ということでバスティーユの楽器屋、ポール・ブッシャーまで車で出かけた。こういうことだけはきちんと言いに来る。
「パパは、ギターをなぜ弾くの?」



楽器屋へ向かう車中、いろいろ人生の話しになった。
「無になるからだよ。ギターを弾いていると心が落ち着くんだ。ギターは裏切らない。パパを一度も裏切ったことがない。お金とか栄誉とかのためじゃなく、パパはギターを弾いて歌っている時が一番幸せなんだ。わかるだろ?」
「それはパパの仕事だからでしょ?」
「いや、パパは仕事だと思ったことはないよ。純粋に音楽が好きだし、ギターが好きだから」
「じゃあ、本職は作家ということ?」
「どうかな、わからない。仕事だけど、よくわからない。その辺、微妙なんだ。パパは会社に勤めたことがないし、名刺を持ったことがない。給料というのを貰ったことがない。昔は音楽や小説は仕事になったけど、今は、本もCDもバンバン売れる時代じゃなくなった。でも、音楽や小説を仕事と言い切りたくもない。でも、お前を養わないとならないからビジネスと割り切る仕事もたまに引き受けている。それはみんな一緒だから、そういう仕事も楽しんでいるし、当たり前のことだ。ただ」
「ただ?」
「ギターを弾くのが好きだ。ギターは裏切らない」
すると息子が微笑んだ。

滞仏日記「パパの職業はなに? と息子に聞かれた」



自分の職業を息子にちゃんと説明できないことでぼくはちょっと恥じた。でも、自分がこれだと思ったことをずっとずっとずっと続けてきた。ギターを弾くことや、小説を書くことを、それが売れても売れなくてもぼくは自分の意思で黙々と続けてきた。ある編集者に、「辻さん、もう音楽はやめたらどうですか? 作家でヒット作、がんがん出しましょうよ」と言われたことがあった。今から20年くらい前のことだけど、いまだに忘れられない。なんでこの人はこんなことを能天気にぼくにぶつけてくるのだろう、と思った。でも、そのことは息子に言わなかった。楽器屋でぼくは息子と一緒にギターを選んだ。その時間がとっても愛おしく、素晴らしかった。ずらっと並んだ世界のギターの中から、ぼくが掴んだのはイバニーズという日本のギターだった。それをアンプにつないで彼の前で弾いてみせた。素敵な音が飛び出した。
「これじゃないか? これがいいと思うけど、お前はどう思う?」
「うん、ぼくもこれがいいと思う。いいの? これ、買ってくれるの?」
ぼくはギターを息子に持たせた。弾いてみろよ、と言った。息子が椅子に座り、エレキギターをかき鳴らした。へたくそだけど、味があった。彼が幸せそうな顔をした。ぼくも幸せだった。ここには一切ビジネスライクなものはない。成績がいいとか悪いとか関係ない。音楽で繋がった、それだけだ。ただ、それだけ。
「これを買おう」
「うん。ありがとう」

ぼくらは帰りに近くのイスラエルレストランに入って、ファラフェルを食べた。
「パパは何をしている時が一番幸せなの?」
「だから、ギターを弾いている時だよ」
「どうして?」
「好きだからだよ」

滞仏日記「パパの職業はなに? と息子に聞かれた」