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音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」 Posted on 2023/01/10 中村ゆかり クラシック音楽評論/音楽プロデューサー ドイツ、エッセン

「管弦楽の魔術師」として世界に名を馳せたフランスを代表する作曲家モーリス・ラヴェル。
ラヴェルが生まれたその家は、スペインの国境に近いフランス・バスク地方の港まちシブールにある。

シブールとその隣まちサン=ジャン=ド=リュズ。ビスケー湾に面した2つの町のはざまには、小さな漁港、サン=ジャン=ド=リュズ/シブール港がある。捕鯨とマグロ漁で栄えた歴史ある漁港で、港に面した通りには、裕福な船主たちによって建てられた別荘が立ち並ぶ。別荘のファサードは、オーナーの国際性を物語る様々なスタイルが混在していて、それぞれに港を見下ろすバルコニーを備えている。
1875年、シブール側の漁港の一角を占めるオランダ風ファサードが特徴的な館で、作曲家ラヴェルは産まれた。当地出身の母が、建物の管理人をしていた姉を頼って館の一室に仮住まいし、里帰り出産をしたのだ。

音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」



私は仕事柄、欧州各地で作曲家ゆかりの地を訪ねている。この小さな港まちへもスペインのバスクへ行くたび、心惹かれて何度か訪れた。大好きなラヴェルの生まれた家があるからだけでなく、この場所で見る景色は、どこか心を満たす、ふくよかでたっぷりとした空気を含んでいて、あるいは、ここを明日にも離れなければいけない感傷があるからか、いつも忘れ難い記憶を残す。
オレンジがかった茶褐色の屋根に赤色の窓枠が織りなすバスクの街並みと、その奥に聳えるピレネー山脈最西峰、ラ・リューヌ山。青や赤を纏った色とりどりの小さな漁船の間を抜け、頬を撫でていく風の感触は甘く、小さな港の風景が人の気持ちをこんなにも豊かにするのだと驚く。

音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」



ラヴェルは、生まれてまもなく家族と共にパリに移り住んだ。けれど、大人になってからも定期的にシブール/サン=ジャン=ド=リュズ周辺に帰ってきた。
サン=ジャン=ド=リュズは、かつて太陽王ルイ14世がスペインの王女マリア・テレサと結婚式を執り行ったことでも知られる由緒ある街。近隣のビアリッツほどではないが、避暑地としても人気が高い。港で毎日水揚げされる魚介や新鮮な野菜に加え、バスク銘菓も揃う美食の街として知られる。私はこの地方の名産品、ストライプを特徴とするバスク・リネンも好きだ。そう、バスクの伝統靴、エスパドリーユも忘れてはいけない。サン=ジャン=ド=リュズの文化とグルメ、そして何より美しいビーチが、今も多くの人々を魅了している。

音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」

音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」

もちろん、ラヴェルもサン=ジャン=ド=リュズとその浜辺をこよなく愛した。時に休暇のため、時に仕事のためにパリから当地を訪れ、滞在中は毎日のように海水浴に通ったという。そんな時間の中で生まれたのが、あの名曲《ボレロ》である。

日課にしていた朝の海水浴へ向かう前、ビーチの装いそのままにピアノの前に座ったラヴェルは、友人に向かって《ボレロ》の旋律を指一本で弾いて見せ、独創的な作曲のアイディアを嬉々として語ったという。

サン=ジャン=ド=リュズに吹く風には、《ボレロ》の虹色に輝く音が宿っているのかもしれない。

音楽をめぐる欧州旅「モーリス・ラヴェルとサン=ジャン=ド=リュズ」

Bibliothèque nationale de France
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自分流×帝京大学

Posted by 中村ゆかり

中村ゆかり

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Yukari Nakamura
専門は、フランス音楽と演奏史。博士課程在学中より、音楽評論とプロデュースを始める。新聞、雑誌、公演プログラム等の執筆、音楽祭や芸術祭のプロデュース、公共施設、地交体主催の公演企画、ホールの企画監修などを手掛ける。また5つの大学と社会教育施設でも教鞭を執る。2016年よりドイツ在住。