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音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」 Posted on 2024/02/19 中村ゆかり クラシック音楽評論/音楽プロデューサー ドイツ、エッセン

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

「最高の部屋は、ルツェルン湖を望む大きな窓のある書斎でしょう。」

セルゲイ・ラフマニノフ

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

ロシアの音楽家、ラフマニノフの代表曲の一つに《パガニーニの主題による狂詩曲》がある。
そのロマンティックな第18変奏は、きっと誰もが耳にしたことがあるはず。
短い序奏のあと、あのメロディが聴こえると、
まるで綿菓子を口に入れた瞬間のように、心に音楽がすっと溶け出して、
身体中が甘さと幸福感に満たされていく。
実はこの作品、彼が「最高の部屋」と呼んだある書斎から生まれた。
いや、実際には書斎が作品を生んだと言って良いのかもしれない。
なにしろラフマニノフは、完璧すぎる部屋を作った自分のわがままへの罪滅ぼしとして、
この作品を書いたと言っているからだ。



音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

ラフマニノフとセナールの書斎のピアノ。Staatsarchiv, Kanton Luzern

その書斎の窓からは、音楽の雄大さに勝るとも劣らないルツェルン湖の景色が広がっている。
屋敷の名は「セナール」。SeNaR(セルゲイ&ナターシャ・ラフマニノフ)
家族を愛したラフマニノフらしく、
自分と愛妻の名から1字ずつとって名付けた彼の夢の家だ。



音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

セナールからの眺め。ルツェルン湖の向こうにはピラトゥス山が聳える。Staatsarchiv, Kanton Luzern

スイスの中央に位置するルツェルンは、湖とアルプスの山々が織りなす大自然と、中世の美しい街並みが、四季を問わず多くの人々を魅了する場所。
冬にはスキーや雪山の散策を。
スイスのリビエラと呼ばれる夏のルツェルンは、パラダイスさながらの避暑地へと変貌する。
私にとってルツェルンは、とりわけ大人になってから心惹かれた土地。
匂い立つ満開の花を抱き抱えるカペル橋。夜の静けさと星の輝き。大自然と向き合う心はそのまま、本来の自分と向き合う時間を運んでくるかのように思えた。

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

アメリカン・ドリームをも掴み、60代へと向かう円熟のラフマニノフが、終の棲家として求めたルツェルン湖畔のセナール。
2万平方メートルの広大な敷地に建つその邸宅は、3年10ヶ月もの月日をかけ、綿密な計画のもとに完成した。
ラフマノフは、当時前衛的だったバウハウス風の建物だけでなく、庭にも心を砕いた。
大掛かりな掘削工事を行い、土の一部は故郷からも運び、選りすぐりの庭木と1000種類以上のバラが植えられた。
速い乗り物が大好きだったラフマニノフには、愛車を収めるガレージも欠かせなかった。
湖畔には大規模な船着場を作り、モーターボートも購入した。

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

ルツェルン湖面から見たセナール。Staatsarchiv, Kanton Luzern

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

セナールで大鎌を持つラフマニノフ。Staatsarchiv, Kanton Luzern

1934年7月末、ラフマニノフは家族と共にパリの旧宅から車を走らせ、完成したセナールへと引っ越した。
翌日には、スタインウェイ&サンズから、60歳の誕生日プレゼントとして贈られた特注のグランドピアノが運び込まれ、
「ルツェルン湖を望む大きな窓のある最高の書斎」は、ようやく完成した。



音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

セナールの書斎にて。Staatsarchiv, Kanton Luzern

セナールで、彼が家族と音楽と共に過ごした愛おしい時間。
それは僅か5年後、ヒトラーとスターリン協定が調印される1939年8月23日の前日に終わりを迎えた。
その日、多くのものをセナールに残したまま、急ぎアメリカへと渡ったラフマニノフが、欧州の地を踏むことは、2度と叶わなかった。

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

セナールの庭で家族と共に。Staatsarchiv, Kanton Luzern

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

セナールの庭で孫たちと。Staatsarchiv, Kanton Luzern



ラフマニノフ亡き後、家族によって守られてきたセナールは、
2021年にルツェルン州が買取り、2023年から限定的な形で一般公開されている。

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

Credits: Kantonale Denkmalpflege Luzern, Priska Ketterer

セナールの書斎から生まれた《パガニーニの主題による狂詩曲》。
私はそこに、ルツェルン湖とピラトゥス山が織りなすパノラマの中を、鮮やかな音の色彩を帯びたロシアの鳥が、駆け抜ける情景を思い浮かべる。
ラフマニノフは、欧州最後の公演と、アメリカでの生涯最後のオーケストラとの公演でこの作品を演奏している。
彼はこの作品の中に何を見ていたのだろう。
ルツェルン湖に沈む夕陽が残した菖蒲色に染まる山並みを眺めながら、
日々の暮らしの中にある幸せの意味を、あらためて考えていた。

音楽をめぐる欧州旅「ラフマニノフとルツェルン」

取材協力:Serge Rachmaninoff Foundation,
Staatsarchiv Kanton Luzern

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Posted by 中村ゆかり

中村ゆかり

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Yukari Nakamura
専門は、フランス音楽と演奏史。博士課程在学中より、音楽評論とプロデュースを始める。新聞、雑誌、公演プログラム等の執筆、音楽祭や芸術祭のプロデュース、公共施設、地交体主催の公演企画、ホールの企画監修などを手掛ける。また5つの大学と社会教育施設でも教鞭を執る。2016年よりドイツ在住。