PANORAMA STORIES

夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・満員電車の恋編」 Posted on 2022/08/18 辻 仁成 作家 パリ

予備校時代という空白の時代が僕には一年ほどある。最初の受験に失敗して、取りあえず東京に出てきて、やることがないから予備校にでも行くかというパターンの学生だった。ただし予備校にはほとんど通わなかった。真面目に通ったのは最初の一、二ヵ月だけだった。後はいわゆる宅浪になった。僕はある時、ぷっつりと予備校に通うのを止めてしまうのである。それには今でも忘れられない事情があった。今回は恥を忍んでそのことを明かすことにしよう。

その頃、僕は東京の田無に住んでいた。そして予備校は高田馬場にあった。

西武新宿線の通勤快速を利用していたのだが、函館から出てきたばかりの田舎の青年にとって、満員電車というのはもう一つ馴染めない乗り物でもあった。ラッシュというのが函館にはなかったので、毎朝のおしくら饅頭状態は辛かった。見ず知らずの人が無表情で僕の体にくっついてくるのだ。公然と行われる痴漢行為である。仕方なくこっちがくっついていくこともあった。電車が傾くと足が浮いて数秒僕の体が宙に浮かぶこともあった。バランスを保つのが非常に難しかった。都会ではバランス感覚が必要なのだ、と僕はあの時に悟った。



あの子を見かけたのは、そんな満員電車の中でだった。長い髪を後ろで束ねて、いつも分厚い本を読んでいた。横顔がオードリー・ヘップバーンのような感じで、透明な印象があり、僕はすぐに彼女のことを好きになってしまうのである。一目惚れだった。

何度か電車の中で見かけているうちに(いつも同じ時間の同じ車両に彼女は乗ってくるのだった)、僕は本当に彼女のことが好きになってしまったのである。何せ、田舎から出てきてすぐのことだ。まわりはみんな冷たく感じるし、東京にもまだ馴れていない頃のこと。あんな満員電車の中で、そんな可愛い女の子と出会ってしまったら、恋をしないほうが若者じゃない。僕はいつしか彼女を朝の電車の中で探すようになっていたのだった。

そんなある日、なんと彼女が僕にぴったりと寄り添ってきた。勿論、ラッシュのせいでだ。僕はなんとか彼女とコンタクトを取りたかった。こんなチャンスは滅多にない。話しかければ、返事を貰えるほどの距離に彼女がいるのだから。目の前に彼女がいるというだけで、もう僕の心ほどきどきのしっぱなしだった。なんとしても声をかけなければ、こんなチャンスはもう二度とこないかもしれない。

そこで辻青年は、自分が手に握っていた英語のノートの余白に、『満員電車は辛いね』というメッセージを書いて彼女が見える場所にそれをすっと差し出してみたのだった。

地球カレッジ



彼女は一瞬僕の方を見てから、そのメッセージを読み、くすりと微笑んだ。まだ若いあの頃の辻少年は調子づくとどんどん突っ走るタイプだったので、すぐに次のメッセージを書いてみた。

よく、この電車で君を見かけていたんだ。学生?―
すると彼女は、小さく頡いたのである。僕は彼女から返事が返ってきた嬉しさが逃げないうちに、また次の一文を書いた。

僕も学生だよ。――

すると彼女は、僕が握っていたペンを取ると、こう書いたのであった。

どちらの大学生さんですか?――

僕の一生の後悔はあの時、起きた。どうしてあの時、僕は正直に、予備校生です、と言えなかったのだろう。一瞬魔が差したのだ。僕は自分が志望していた大学の名前をふっとそこに書いてしまうのである。愚かなことをしたとすぐ後悔したのだが、もう遅かった。すると彼女は目を輝かせてこう書いてきた。

私は予備校生なんです。先輩の大学を来年受験するつもりでいます。――

そう書かれて、目の前が真っ暗になっていた。僕の顔を覗き込んで微笑む彼女を、僕はまっすぐに見つめ返すことができず、あやふやに視線を逸らすのだった。

あなたはどちらの予備校ですか? と僕はもう一つ質問をしてみた。すると彼女は僕が通っている高田馬場の予備校の名前をそのノートに晝いたのである。

電車が駅に着くまで、僕は大学生活について質問を受けてしまった。キャンパスはどうなっているのか、学生食堂は広いのか、図書館は充実しているのか、クラブ活動は何をしているのか、学生運動なんかも盛んなのか。僕はそれに一つずつ答えた。勿論空想でである。

電車は高田馬場に着き、彼女は降りた。しかし僕は降りなかった。西武新宿駅まで行かなければならないからと、もう一つ嘘をついて……。

また、電車の中で会えるのを楽しみにしています、と彼女は最後は声に出して降りていった。まもなく発車のベルが鳴り、閉まった扉の向こうで、彼女がぺこりとお辞儀をした。敬意を込めたお辞儀だった。

僕はそのまま、躊躇せずに新宿の楽器屋へ出掛けていった。そしてギターを無理して一台購入した。次の日から予備校には行かず、家でギターの練習にあけくれるのだった。

夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・満員電車の恋編」



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Posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。