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パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神 Posted on 2020/01/23 辻 仁成 作家 パリ

パリはちょうどファッションウイーク期間でした。世界中からファッション関係者が集まり、奇抜な服に身を纏った人たちの姿が目立ちます。フランス人に人気のあるパリ在住の男性日本人デザイナーと言えば、ケンゾー・タカダかムッシュ・イリエでしょう。実はぼくもイリエさんの服が好きで、よく着ています。イリエ・ウォッシュというラインがあり、これは自宅で洗濯も可能、とっても便利です。行動力があり、でも繊細で、パリっぽく、素敵なのです。ムッシュ・イリエは、まだ、日本人がほとんどいなかった時代に船に乗ってフランスにやって来ました。

ムッシュ・イリエのブランド、IRIÉはカトリーヌ・ドヌーブなどフランスのセレブたちに愛されています。日本人のブランドという枠を超えてフランス人に親しまれて、すでに30年以上の歳月が流れました。
ファストファッションが席巻し、アルティザン(職人)気質のデザイナーが減ってきている昨今のファッション業界の中で、パリに腰を据え、安定した仕事を続けているデザイナー、入江末男さんにインタビューを試みました。

ザ・インタビュー、IRIÉのアルティザン精神ここにあり!
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

 
 5、6年前、パリのあるブティックで入江さんをお見かけしました。上から下まで全部革で決めている、ロッカーみたいな人が目に入ったんです。僕も昔から革ブーツ、黒いジーパン、黒い革ジャンを着てたりするんですけど、自分と同じような格好をしている人がいると思って(笑)。それで、もしかしたら入江さんかな? と思い、よく見たらやはり入江さんでした。15年ほど前に初めてお会いして、狭いパリですので時々すれ違いますが、いつもビシッと決まっていて、スタイルも良いですし、「パリが似合う日本人」という印象です。入江さんがパリに渡って来られたのは何年くらいなのですか?

入江 末男さん(以下、敬称略) パリに辿り着いたのは、1970年です。ヒッピーの時代、23歳の時でした。

 1970年というと大阪万博の年ですね。万博の後ですか?

入江 万博が終わった頃かな。パリに来る前はコシノヒロコ先生のアトリエに勤めていました。コシノ先生のところに入る前からもう「私はパリに行きたい」と宣言していたので、大阪総合デザイナー学院(旧ウエダヤスコ)を卒業して、コシノヒロコ先生の下で数年働いて、万博が終わった5月頃、日本を発ちました。大阪港から船に乗って「ナホトカ」というシベリア鉄道が始まるところまで行き、そこからシベリア鉄道に乗りました。

 日本からパリまでどれくらいかかったのですか?

入江 トータルで2週間くらいかな。最初、モスクワで一泊、そのあと汽車でレニングラードに一泊。レニングラードから、今度はヘルシンキに行って、ヘルシンキから夜船でストックホルムに渡りました。ストックホルムからは「パリ・エキスプレス」という直行列車があったのだけど、ミステイクをしたのでドイツで乗り換えなければならなくなった。それで、最終的にパリの北駅に辿り着きました。

 荷物も結構持っていらしたんですよね?

入江 そう、荷物がとても多かったので旅行は大変でした。声をかければ助けていただけたかも知れないけれど、当時は言葉もあまり話せなかったから。システムとしては、1つの荷物を持って、もう1つが盗られないように後ろを振り返りながら運び、2つ目も同じようにして…という感じです。ヘルシンキからストックホルムまでの船が、今でいう大型クルーズ船みたいな船だったので、そこでも荷物を1度に全部上げられなくて2、3回往復しました。今思い返せば大変だったなと思うけれど、その時はそういう風には感じなかった。若さもあったのかもしれませんが、勢いと、早くパリに辿り着きたいという想いの方が強かったですね。パリでの生活に対しても、暖房が無くちゃダメとか、生活に対しての煩わしい条件なんか考えることは全くなかった。ハングリーだったというか。

 ちょうど、60年、70年代というとロックの時代ですよね。

入江 私はヒッピーだったからロングコートとか着たりして、髪も肩くらいまでありました。当時、外国に出る時に持ち出せる現金が10万円だったか、20万円だったかに制限されていたんです。でも私は観光で2週間だけ行くというのではなくて、まずパリに行って、できたら住んでみたいという気持ちがあったので、現金を多めにロングコートの裏地に入れ込んで行きました。他人様に迷惑かけてはいけないから、多少はね(笑)。船でロシアに到着すると、手荷物検査があってね。今から戦争があったらすぐにでも出て行けそうな格好をしたロシア人の兵隊さんたちがゾロゾロと船に乗り込んできて、船を降りて陸に上がる前に一人ずつコントロールしていくんです。私はロングコートにお金が入ってたので、すごくヒヤヒヤしながら通過したのを覚えています(笑)。

 当時、パリには誰か頼る人がいらしたのですか? どうしてパリだったのでしょう?

入江 誰も知り合いはいませんでした。どうしてパリなのかというのは、私が生まれた家庭は大家族だったので、ずっと自宅に自分の部屋がなかったんです。いつも家にはたくさん人がいるから、部屋の片隅に机を置いてドライフラワーをちょこっと飾ったりして。自分の城というか、空間を持つことに憧れていた。それで、中学生になった頃から「日本を脱出するにはどうしたらいいのかな?」と考え始めました。その時はまだファッションのことを考えていたわけではなく、とにかく、どこか外国へ行きたいと思っていた。当時ブラジルへの移民受け入れがあって、それも考えたりしたくらいです。だけど、高校生になって、ヌーベルバーグの映画が日本にも入って来たりしだして、同じ外国に行くのならパリかイタリーがいいよねって思うようになりました。
 
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

パリに来たばかりの頃の入江氏(入江氏より提供)

 
 


 パリに住み始めた頃、70年代は高田賢三さんの下で10年間アシスタントをされたそうですが。

入江 パリに到着して、街をひと通りうろうろ歩き回って、やっぱりパリに住みたいなと思ったので、それではどうやって生活して行こうか、と考えはじめました。それで、日本を出る前にコシノヒロコ先生から「KENちゃんがパリにお店だしたわよ、パリに行くんだったらよろしくね」と言われていたのを思い出して。私がパリに着いたのが1970年の5月で、KENZOさんがお店を開けたのは同じ年の4月だった。それで、ギャラリーヴィヴィエンヌにあったKENZOのブティックを訪ねて、「ヒロコ先生がよろしくと仰ってました」とか言って、初対面だったのでご挨拶だけして帰りました。でも、何か仕事をさせて貰えないかなと思って、もう一度訪ねて行ったんです。だけど、当時、KENZOさんはブティックをオープンさせたばかりで、彼の母校の文化服飾学院から3、4人スタッフを連れてきていたので、「ちょっと今は…」と言われて諦めて帰りました。それでもまた、呼ばれていないのにブティックにちょこちょこ通い続けて、頼まれてもいないのに店のデコレーションなんかをいじったりしていたんです(笑)。それを見兼ねたのか、ある日「ちょっと忙しくなってきたから、何か手伝ってくれる?」と声をかけてくれました。そこにたどり着くまで4ヶ月くらいです(笑)。 

 それまでよくお金が続きましたね。

入江 当時はお金を使うと言っても蚤の市でちょっと物を買うくらいで、住むところだって、誰かがアパートを借りたと聞いたらみんなでそこへ行って寝たり、狭い屋根裏部屋で生活したりするような時代でしたから(笑)。そんなガタガタの時代だったんだけど、苦しいとか、辛いと思ったことは一度もなかったですね。

 今日、入江さんがここに存在するのはKENZOさんの力もありますね。

入江 そうですね。人生って折り目があったり、軌道修正していく時に思わぬ出会いがあったりしますよね。私はKENZOさんと同じ時代にパリで出会って、今もずっとお付き合いをさせていただいている。私は彼のことを「との様」と呼んだり、よく冗談のように話して笑うのですが、やはり、高田賢三というのは私にとってプロフェッサーというか、リスペクトしている人ですね。

 もともと、入江さんがファッションの世界に入ったきっかけは何だったんですか?

入江 ファッションの世界に入ろうと考えたのは、デザイン学校に入る時にインテリア、グラフィック、ファッションの3コースがあって、どれか1つ、コースを選べたんです。それで、インテリアやグラフィックみたいにミリ単位の世界はちょっと苦手かなと思って、ファッションは、当時よく姉と一緒に買い物に行くことがあって、彼女はいつも私に3つくらい洋服を並べて「どれがいい?」と意見を求めるんです。それに答えるのが楽しかったので、いいかなと思いました。私は女性らしい女性は苦手だけど、アンドロジンヌでコケティッシュ、少しボーイッシュなところのある女性が好きだった。例えば、日本だったら加賀まりこさんとか、ヨーロッパだったらジェーン・バーキンさんみたいな人。加賀さんは、当時すでにシャネルなんかをさらっと着こなしていて、とても格好よかった。今、当時の格好のまま現れても全然時代遅れじゃないようなファッションだった。私がファッションに目覚めたのはそんな女性たちの影響もあります。

 加賀まりこさんやジェーン・バーキンさんって、コケティッシュでボーイッシュでミステリアスな感じがありますよね。生き方もかっこいいですし。

入江 そうなんです。ルックスもそうですけど、シャキシャキっとしていて生き方がクール。インテリジェンスとクレージーさを併せ持っているような、そんな女性が私の想い描く理想の女性像なんです。それが私のクリエーションに繋がっているのだと思います。

 僕ね、今、すごく腑に落ちたんですよ。入江さんのデザインって加賀さんに絶対似合いますよね! このインタビューのお願いをするために入江さんにお電話をさせていただいた時、「ちょうど今、カトリーヌ・ドヌーブが来ていたのよ」と電話口で仰られたのですが、カトリーヌ・ドヌーブと加賀まりこってなんか繋がるものがありませんか? 入江さんが好む女性像、狙ってきた路線通りにフランスのお客さんも集まってきている気がしました。

入江 カトリーヌの場合は大手のブランドと仕事上の付き合いがたくさんあるので仕事ではおつきあいが無いのだけど、彼女は左岸に住んでいるし、左岸が好きだから、個人的によくお店に来てくれます。大女優なのに、観光客を乗せて走っているタイのトゥクトゥクに乗って移動しているのを見かけたこともある。頭でっかちじゃなく、生きたいように生きてるって格好いいですよね。
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

 
 カトリーヌ・ドヌーブは歳をとっても挑戦的な役を演じたり、ヌードになったり、「カトリーヌ・ドヌーブらしい」生き方をしているなって思う。もちろん、若い頃はとっても美しかったしミステリアスだった。入江さんのデザインってそういう人にぴったりな気がします。それに、お歳を召した人が着ても体型にフィットして、きれいにラインが出るシルエットがある。まさに、いつまでも小悪魔的でいられるデザイン。それは入江さんが生きてきた人生の中から育まれてきたものなのでしょうか?

入江 そうですね。私自身もちょっとそういうところがありますから(笑)。

 小悪魔的? ですか?(笑)

入江 私はいつも天使と悪魔を表す2つのブレスレットをつけているんですけど、天使と悪魔がどちらも宿っているみたいな人っているじゃないですか。そういう人に興味がある。例えば、レストランに、パンクな人たちが集まるテーブルと、スノッブな人たちが集まるテーブルがあったとして、ちょっと髪をいじるだけでどちらのテーブルにも馴染むことができるような、カメレオンみたいな人が好きなんです。思えば、私はいつもそういう対比のバランスを意識してる。私はモダンなニューヨークとクラシックなパリ、この全く正反対な二つの街が好きなんですね。だから、私のお店もニューヨーク的な「モダン」、プレーンでミニマムな空間の中に、大理石という私にとっての「クラシック」を取り入れている。モダンとクラシックの対比なんです。どうやら私は女性像も、人生観も、対比していることが好きみたい。自己分析してみると。それから、「未完成」というのが好きです。「完成」を目指すのではなく、絶えず何かを探し続けているようなクリエーションをしていたい。

 なるほど、入江さんのお考えがよくわかってきました。ところで、ここは入江さんのブティックの前にあるホテルのラウンジですけれど、この通りは通称「IRIÉ通り」と呼ばれるほど入江さんのお店がたくさん並んでいます。サンジェルマン界隈のこの場所にお店を作ろうと決めたきっかけは何ですか?

入江 当時は予算もそんなになかったのでね。4人くらいで会社を始めた時に、大通りに店を出すのは資金的にも大変だし、プレッシャーがあった。だから、我々にはサンジェルマン大通りから少し入り組んだ、この裏通りがちょうど良かったんです。

 この通りは本当に静かで、賑やかなサンジェルマン界隈にしては非常に珍しい場所です。そこに入江さんが次々とブティックを出していって、大女優も足を運んでくる…。

入江 この辺りのレストランにはマドンナやトム・フォードなんかがふらっと立ち寄ったりする。華やかなシャンゼリゼ大通りだとか、有名なレストランではパパラッチに狙われたりするような人たちも、この界隈ならこっそり楽しめるんです。密会をするような、”私だけの秘密” にしておきたいようなお店やレストランを見つけることができる場所ですね。

 プレオクレール通りにはIRIÉが何軒あるのですか? 最初は1軒から始めたのですよね?

入江 そうですね。ブティック、事務所、アトリエを含めて6軒ですね。だけど、スペースがすごく狭いから。「アルティザン」ができる経営です。”ファスナーからデリバリーまで” 全てこのプレオクレール通りから発しています。
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

 
 今日はね、入江さんに「アルティザン」というお話を聞きたいと思っていたんです。まさに、今、入江さんの口からその言葉が出てきました。入江さんにとって「アルティザン」とはどういうものなのでしょうか?

入江 最近ますます感じるようになったのは、昔よりも、いわゆる「グラングループ(大手グループ企業)」のやり方と、こつこつモノ作りをする職人、「アルティザン」のやり方の差がはっきりとしてきた、という事です。仕事としてはやりにくい場合もあるけれど、大手企業ができないようなことを、私たちアルティザンはこれから訴えていかなければならないと思っています。

 グラングループ、超大手と言われるメーカーがファッションを牛耳る今の時代、それはそれでみんなが手軽にファッションを楽しめるならば良いと思いますし、必要なのかもしれない。でも、ファッションが画一化されてしまったり、「ファッション」という言葉自体がファッションからかけ離れてしまいつつある。その中で、「そうではない」と声を上げるデザイナーたちがいる。その彼らが「アルティザン」であり、デザインストーリーズはその彼らの生の声、考え、想いをもっと広く届けたいと思っているんです。入江さんご自身は、ブランドを立ち上げる時に「これだけは最後まで貫きたい」と思われたことはありますか?

入江 そうですね。まず、ライセンスという仕事はしたくなかった。いっぱいものを作ってライセンスで名前だけついてるっていうのは避けたいと思っていました。というのは、人間ってある程度のリミットがあると思うんです。「IRIÉ」という名前がついている限りは入江自身の手で作りたい。自分ができる範囲のことしかしたくないんです。だから今も変わらずアルティザンという形でやっています。それと、あともう一つは、83年にブランドを立ち上げて以来、毎年のファッションイベント(ショー)には参加していないということ。それは今もそうしていて良かったなと思っています。

 要するに「パリコレ」ということですね。それは、あえて出さなかったんですか?

入江 そうなんです。その頃はちょっと反逆児というか、「入江はショーに参加しないなんて、ちょっと生意気ね」なんていう風に見られていたかも知れないけれど、デザイナーとかクリエーターってエゴイストなところがあるじゃないですか。「美を追求している」わけだから、ショーをするならどうしても自分のやりたいことを全て叶えたいと思ってしまう。例えば、ショーの場所はあのパレスホテルがいい、モデルにはケイト・モスを使って、ミュージックは……というイメージがあったとしても、予算のことを考えたりしたらいろいろなことを妥協しないといけない。中途半端にはしたくなかったのでやらなかったんです。

 素朴な疑問なのですが、入江さんはパリの中心地にはお店を出さない、ファッションショーもやらない、となると、どうやって今まで「IRIÉ」を届けてきたのですか? どういうアピールをしてきたのでしょう。

入江 ショーはやらないけれど、ファッションウィークの時期に展示会(年4回)は行っています。ファッションウィークには世界中のバイヤーさんが集まりますので、その時に合わせて。
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神




 
 宣伝など派手なことは一切しないで、地道に自分の範囲の中で続けてこられたというのが入江さんの「アルティザン」スタイルなのですね。

入江 そうですね。だけどね、それはそうなんだけど、「これだから、絶対こう!」とか、へんくつ爺さんみたいに頭が硬いわけでもないんですよ(笑)。それを基本にしつつも、その時代、時代の波を取り入れていくことは大切だと思っている。”bling-bling” という言葉がありますけど、ある程度のbling-blingを入れていかなきゃダメだと思ってます。

 ”bling-bling” ですか(笑)。

※bling-blingとは……英語のスラングで、ギラギラ光る装飾品を過激に身につけるスタイルや羽振りの良い派手な生活スタイル、また、そのような人のことを形容するときに使う言葉。ゴージャスでかっこいいというニュアンスで使うこともあれば、成金で鼻につくというようなシニカルなニュアンスで使うこともある。

入江 ”bling-bling” と言っても、キラキラ光らせるというわけではなくて、たとえば、中世の時代にロミオとジュリエットがいて、バルコニーで愛してますっていう場面にみんなが感動したのですよね。でも、今、ロミオとジュリエットがいたとしたら、「バルコニーで愛してます」というのに、時代に合わせた何かをプラスαしていかなければ誰も感動しない、ということなんです。そういう意味では、私はアルティザンだけど、必ず ”bling-bling” を取り入れている。

 一つのこだわりに捉われ過ぎると、「アルティザン」とはいえど多くの人には支持されない。だから、その中に少し、今の時代に合った、華やかな、”bling-bling” な空気を入れていく。こだわりつつも開いているところが必要だということですね。

入江 そうですね。こだわりがありすぎてそれ一筋というのでは、「カビ」が生えてくるから(笑)。
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

 
 僕はIRIÉ WASHがとても好きなのですが、こちらはどういうコンセプトなのでしょうか。 

入江 IRIÉ WASHは2000年から始めました。素材は主にポリエステルとナイロンですね。お客様には弁護士さんや精神科医さんなど、個性が強くてバリバリ働く女性が多いです。私はデイリーの洋服が好きなんですが、毎日忙しいキャリアウーマンの方々が気軽に着れたり、旅行に持って行ってもさっと洗うだけでアイロンをしなくても翌日にはピシッと着れる、という洋服を作りたかった。今はエルメスもHERMÈS WASHというスカーフを出しています。WASHの方もグランドグループの波に押されてきました(笑)。

 入江さんのこれからの夢を教えていただけますか?

入江 私は大理石とかアンティークが好きで、ヴェネツィアの大きなシャンデリアなど、普通ならブティックに置かないようなオブジェをIRIÉのブティックに分散していっぱい置いてあるんです。いつか、それらを一箇所に集められるスペースを作ってみたい。あとは、「IRIÉ」という名前を何かのかたちでこれからもキープしていきたいと思っています。

 「何かのかたち」で、ですか(笑)。最後に一つだけお聞きしたいことがあります。入江さんにとって「パリジェンヌ」とはどんな人たちなんでしょう?

入江 ずばり、お金を使わないのがパリジェンヌですね。今は少し変わってきましたが、パリジェンヌは昔のスタイルをキープするのがとても上手。古いクタクタのジーンズに大きめの白いYシャツのボタンを3つだけ留めて着ていて、おばあちゃんの田舎の家で見つけた古いエルメスやシャネルのバッグを持っている、みたいな。今年の流行りの色が「紫」だとしたら、トータルで紫を着るんじゃなくて、どこかにポイントで紫を使ったりするのがパリジェンヌ。流行は一部だけ取り入れるか、あえて着ない! それは、フランス人の気質も影響していますよね。フランス人って、すぐに「はい、それいいよね!」とは言わないじゃないですか。必ずブツブツ講釈を述べてから「まあ、そうね、悪くないわね」という感じ(笑)。パリジェンヌのおしゃれは全くそれなんです。「はい、そうですか」と、流行を鵜呑みにしない、決してお手本通りにしないのがパリジェンヌのスタイルでありセンスなんです。とにかく、あるものでなんとかする。決して贅沢じゃない。ロックやパンクファッションの子たちにしても、パリジェンヌはクラシックとクレージーのバランスがよく取れていますね。ロンドンの子たちの場合はちょっとやり過ぎなところがありますから。フランス人のファッションというのは、いつも絶妙なバランスを保っている。おそらく環境や気質がパリジェンヌファッションの根本にあるのだと思うんです。プライドの高いファッションですね。
 

パリジェンヌに愛され30年、デザイナー IRIÉのアルティザン精神

Photography by Takeshi Miyamoto

 
 



posted by 辻 仁成