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ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」 Posted on 2018/12/04 辻 仁成 作家 パリ

日本にブライダルという言葉を定着させた永遠の少女、桂由美インタビューの第二弾、ここからが桂由美の真骨頂です。人生をここまで快進撃し続けた人ってそうなかなか出会えません。この人の感受性の豊かさをここから読み取ってみてください。

ザ・インタビュー、「桂由美の終わらない挑戦」
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 

「ギネス パール」: ギネス世界記録を持つミキモトパールを13,500個使用したドレス

 
 1964年に初めてウエディングドレス専門の桂由美ブライダルサロンがオープンして、その後、日本に「ブライダル」という言葉がじわじわと広がっていくことになる。そんな中、何か成功したという瞬間、スパークした瞬間はありましたか? 現代までで一番桂さんらしい話を聞いてみたいですね。

桂由美さん(以下「桂」、敬称略) 1981年に始めてJETRO(日本貿易振興機構)がニューヨークの5つ星ホテルを3日間借り切って、JFF(ジャパン・ファッション・フェアー)をやることになったんです。なぜかというと、その頃「ワンダラーブラウス」という言葉がアメリカにあって、Made in Japanはブラウスが1ドルで買えるという意味だった。安かろう、悪かろうの代名詞だったんです。それで、JETROが日本もいいものができることを見せたいと言って、オンワードなど60社以上がそのフェアーに参加したんです。その時に、ウエディングドレスが入ってないから出してと言われましたので、私はすぐに作品と写真を持ってニューヨークに飛んで、「ブライド」の編集長とデパートのバイヤーに見てもらいました。

 それは、フェアーの前にニューヨークまで事前調査に行ったわけですね。

 そうです。そしたら、日本のシルクってキレイね。あなたのデザインはアメリカにないものがあるわね。スイートハートのデリケートなラインはアメリカにはない。このデザインが好きな人もいるからいいと思う。でも、だけど、どうしてこんなかわいいデザインばかりするの? と言われました。10代、20代で結婚する人はこういうデザインがいいだろうけど、あなたのドレスを日本から輸入したら輸送代もかかるし関税もかかるから高くなる。目が肥えてくる30代、40代の人ほど高いものを買おうとするのだから、そうするとこのデザインではかわいすぎる。と、言われたんです。日本でピエール・バルマンのデザインはかわいくないから売れなかったんだけど、「アメリカではお嫁さんを褒めるのにかわいいとは言いませんからね。」と言われた「なんて言うんですか?」と聞いたら、「それは、セクシーよ」と答えたので驚きました。

 日本で花嫁さんにセクシーなんて誰も言わないですよね! 今でもちょっと言えません。セクシーですねなんてというとちょっと意味を違って捉えられてしまいそう。

 それで、私はそのJETROのフェアーにロマンチックなデザインをちょっぴりセクシーにして出したんです。そしたら、ニューヨークポストに、「程よいセクシーさ、程よいロマンチズム」という批評記事が出ました。私は服装史が好きなのですが、歴史を読み解くと、マリー・アントワネット時代はドアを通れなくて、ドアを直さなければいけないくらい大きなスカートのドレスを着ていたのですが、その後に来た流行というのは、だんだん細くなるのではなくて、いきなり細くなるんです。その繰り返し。だから、あの時に、もうこれ以上スカートの幅は大きくならないなと思ったので、新しいものをと思って細身のドレスも4割出しました。素材としては全部日本製のシルクとレースを使いました。喉から手が出るほどフランスのレースを使いたかったけれど、「ここは日本のもので」と思って全て日本のシルクとレースで作った。日本のためだから、と無理言って日本のメーカーさんにオリジナルレースを4種類作るのを引き受けてもらいました。でも、そのおかげで成功しました。爆発的に成功した。当時アメリカでは私のようなデザインは作ってなかったんですよね。

 成功したというのは、商品が売れたのですか?

 TFFがきっかけで、ニューヨークの各有名デパートのブライダル売り場が桂由美デザインの取り合いになったんです。ライバル同士のデパートも取り合いするものだから、この6パターンはあなたのデパート、この6パターンはあなたのデパートという風にしなければならないくらい。みんなが珍しいと言ってニューヨークのギャラリーラファイエットのショーウィンドウにも飾られました。ただ、その頃にちょうどチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式があって、ダイアナ妃がとってもビッグラインのドレスを着たので、細身の方は一着も売れませんでしたけどね(笑)。
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 
 いつも風が吹いてるところに桂さんがいますよね。他にも何か面白いお話が出てきそうだな!

 私は1964年の暮れにお店をオープンしたのですが、パリの留学のあと、お店のオープン直前、1963年から64年にかけての10ヶ月間、もう一度ブライダルのリサーチをと思って世界を回りました。日本でも社会主義が出て来た時で、共産国ではウエディングはどうなんだろうとか、いろいろ興味があった。モスクワからヨーロッパに入って最後にアメリカに行って帰ってきたんですけれど。その計画を「女性自身(光文社)」の取材で話したら、まだ1ドル400円ぐらいの時代、なかなか派遣記者を出せないので、あなたが派遣記者をやって来て欲しいと頼まれました。グレース王妃やオードリー・ヘップバーンにインタビューをしてきて欲しい、通訳を付けるが、私が全部写真もテープもとってくるというんです。成功報酬で払うというんだけど、そんな大したことない額でね(笑)。でも、現地特派員の証明書を出すというし、私も駆け出しのデザイナーでしたから。私がインタビューを申し込んでもダメでもマスコミの取材なら成功するかもと思ったので引き受けました。
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 
 (当時の記事の写真を見て)わ、本当だ。”本誌特派員 桂由美”となってる(笑)!

桂 そしたら、グレース王妃がオーケーしてくれたんです。本来なら36カ国くらいの記者が対談の順番待ってるのだけど、それを飛び越えて、グレース王妃が日本に興味を持っているという理由で私が選ばれた。「何日の何時に来ててください、だけど写真はだめです」と言われました。でも、念のためにと思って私、カメラも持って行ったんですよね。そしたら、グレース王妃が私のカメラを見て、帰りがけに「写真撮りたいんでしょ?」と言ってくれたんですよ! だけどね……、日本に帰ってから現像してみたら真っ黒だったの……。朝早く一人で着物を着て大急ぎで準備したもんで、フィルムが正しくセットされていなかったのね。

 桂さーん(笑)!

 オードリー・ヘップバーンさんにお会いしたのは彼女の映画撮影の最後の日で、この時間ならブローニュの森にいるからそこで受けるけど、その後スイスに帰ったら一切取材は受けないと言うので行きました。でもその時、時間がなくて私の質問に答える時間が十分なかったから、「後で手紙を書くわ」と言ってくれて、本当に日本まで手紙をくれたんです! だけどね……、その手紙なくしたんです……。

 え、何言ってるの!? 失くしたんですか? そういうの多すぎません(笑)? でも、それでいいですよね。桂さん自身にとって、当時彼女たちに会ったということはその後のクリエーションに刺激を受けたと思う。その時代にそんな世界を経験したことはきっとウエディングドレスにも影響を与えてますね。

 そうかもしれないですね。最もエレガントな女性は? と聞かれたら、私はグレース王妃と日本の皇后陛下をあげますね。

 ブライダルの話に戻しますが、ニューヨークで成功をした後に、ブライダルといえば桂由美になるわけでしょうか?

 いやあ、それがね……、アメリカでもう一斉にコピーが出回ったんです。アメリカでは再現できる刺繍ではなかったから全部台湾に頼んで。台湾は日本の5分の1かなんかの料金ででき上がる。同じようなデザインで、高いのと安いの二つ並んだら安い方を買う。その頃円高になってきたのもあって。とはいえ、アメリカでの販売もずっと続き、今はライセンスでニューヨークにショールームを作ってやっています。

 それだけの実績があるのに、なぜ未だにパリに精力的に出てきて、つい13年前に路面店を出すまでに至るんでしょうか。パリのヴァンドーム広場にお店を出すって簡単なことじゃありません。成功しても桂由美が挑戦し続けるという、その本心を教えてもらいたいです。

 ファッションデザイナーとしての原点はパリにあると言いましたが、その時からいずれは自分が作ったものをパリの人にも着てもらいたいと思っていた。アメリカもよかったけど、やはりヨーロッパの人の方がエレガントだと思う。今ブライダルの流れはアメリカが中心ですが、もう乳房が見えそうなほどのデザインとか、過激すぎるんです。イタリアの神父さんは「なぜ結婚式にそんなセクシーにしなければいけないのか」と怒っています。そこには世界的に宗教離れというか、結婚式に教会に行かない動きになってきているのも影響していると思いますが。
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 
 なるほど。でもその頃の夢は叶ってきているのではないですか?

 まだまだ開拓中ですけどね。オートクチュールの仕事がしたかったんです。なんといっても、パリのオートクチュール協会というのは、ファッション界に依然と君臨してる。パリコレというのはやはり格が違うんです。初めてパリコレに参加する時パリの組合長に話をしたら、あなたはブライダルファッションのデザイナーとして有名だけど、パリコレにウエディングドレスだけを出すのじゃ困ります。普通の服をやらないのだったらブライダル専門のセクションに行ってくださいと言われた。お店だってブライダルだけのお店では将来オートクチュール組合に入られては困る、と。だから、日本人にしかできないことをやろうと思って。日本の着物離れが増えているのも気になっていたので京友禅をドレスにしようと思ったわけです。パリのお店はそれがメインです。オートクチュールはとにかく、独創性が必要です。今季何を訴えようとしているかが問題となる。

 需要の方はどうなのでしょうか? ショーの反応は? ジャーナリストの反響などはどうなのでしょうか?

 店を始めて13年ですが、友禅に絞ってからは丸5年になりますけど、回を増すごとに反応はよくなっています。「西と東の架け橋になっている」とか書いていただいている。
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 
 ここに至るまで、大変なこともいっぱいあったと思います。 

 以前、「波乱万丈」というテレビ番組への出演を依頼されましたが、私は特に波乱万丈ではなかったんですよね。母からずっとダメだったら学校に戻れと言われていたから、初めからずっと地道にやってきたので、危なくなるような借金もしてこなかった。大したことないんですよ(笑)。 ただ、バッシングはずっとありました。ブライダルは敵だ!と思っているファッション業界のバッシングがすごかったですね。

 これからパリのブティックをどう広げていきたいですか? 桂由美がパリのヴァンドーム広場から発信し続けているということが、何より桂先生のエネルギーになっていると思いました。桂先生が生きている限り、フランス人にどうやって桂由美のスタイルを届けていくか、挑戦していくのだと思います。他にはどんなことをお考えですか? 

 世界各国の人が着てくれたらいいなと思います。ジャパニーズファッションをどうやってヨーロッパに浸透させていくかというのを探っていきたいですね。今度はジャポニスムの参加イベントとしてパリで2019年1月にオートクチュールコレクションをやります。今どこの会場でやろうか考えている最中で。展示もやりたいですね。

 日本で最初にブライダルを始めた桂さんは、西洋に憧れて西洋で学んだスタイルを、日本の素材のみ使って世界に出て行った。そして、今度は逆にここヨーロッパで日本のファッションを西洋の方も着られるようにアレンジして届けようとしている。桂由美のブライダルが生まれて何十年、全くかぶれず、ぶれていない。桂由美スタイルが確立しています。

桂 今ね、フランシス・コッポラさんのお孫さんのコリー・コッポラさんという方が、桂由美の自伝や伝記は日本語のものしかない。桂由美の英語の自伝を出すべきだと言ってくれて。書いて出版社と話しているのですが、なかなか進まないので今度は映画を一緒に作ろうとも言い始めたんです。さあ、どうなるでしょうね。

 わ、それも物凄い話じゃないですか。桂由美伝説はココから始まるんだと思います。とってもパワフルな永遠の少女、桂由美でいてくださいね。また、パリでお会いしましょう。
 

ザ・インタビュー「桂由美の終わらない挑戦」

 
 

posted by 辻 仁成