THE INTERVIEWS
建築家、田根 剛の素顔 Posted on 2017/02/07 辻 仁成 作家 パリ
バルト三国、エストニア国立博物館の建築コンペに優勝し、10年の歳月をかけて完成に導いた建築家、田根 剛。
終わりなき静かな情熱に迫るザ・インタビュー。
田根 剛にとって、建築家とは何か? なぜ、建築家を目指したのか? そして、将来の夢は?
成功の影に隠された若き才能の本質に迫ります。
New National Stadium of Japan “Kofun Stadium”
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane
辻 オリンピック、新国立競技場の話を聞かせていただけますか? あそこまで残っていたのに、残念ですけど、でも、面白い発想ですね。古墳。世界の人はピラミッドのことをあんなに知っているのに日本の古墳には目を向けないですね、不思議です。
田根 そうですね。僕も何で古墳が世界遺産にならないんだろうって不思議に思っていたのですが、いろいろあるみたいなんです。コンペに古墳スタジアムを出した直後っていうのは、いいと言った人と、なんだこんなのと言った人が半々でした。建築じゃなくて山じゃないかって。こんなのできない。現実的じゃないって業界内では散々。
辻 どのような構造を設計したのでしょう? 形状は古墳で上部に穴が開いてスタジアムになってるんですか?
田根 アイデア自体っていうのもオリンピックというのはギリシャに起源があったので、もともと建造物としてもあんなに数千人から何万人って人が集まる場所って作れなかったんで、大地を切り裂いて、掘り込んだところに人が集まる場所ができた。そういう原初的な掘り込み型のスタジアムを作りたかったので。
辻 面白い発想ですね、それはいつ頃、考えたのでしょうか?
田根 2012年ですね。あれは、スタッフ1人とインターン2人と僕と4人くらいで作りましたね。実はコンペ要項自体は建築界でも大ブーイングだったんですけど、参加条件っていうのが、基本的にゴールドメダリストっていう、プリツカー賞とか、イギリス、アメリカのゴールド・メダル賞、高松宮賞(高松宮殿下記念世界文化賞)だったり、そういう世界中の金メダルを持ってる人しか参加できないっていう条件だったんです。で、一応第2条件の中で「1万5千人以上のスタジアムを経験したことのある人」というのがあったので応募できました。基本的にはスター建築家に作らせたいっていうのが目的のコンペでした。
辻 その条件に関して、なんか、テレビ番組の中で静かに怒ってましたよね。あれが印象的でした。怒ってるのか怒ってないのかよくわからない感じで怒る田根 剛。
田根 (笑)
辻 なんとなく開かれていない日本の建築業界の現状も、田根さんが日本を離れ世界へと向かう原因の1つなんでしょうか?
田根 僕が日本を出た当時はそんなに政治的なことまでは考えていなくて、僕はずっと東京に暮らしていたんですけど、大学で北海道の東海大学(芸術工学部 建築学科)に行って建築を学んで、たまたまそこから北欧に行くことになりました。
辻 ラッキーですね。田根さんは世界的な建築家になろうという野心が初めからあったわけではなくて?
田根 ある程度はどうやったら建築家になれるかということは考えてはいましたけど。
Photography by Takeshi Miyamoto
辻 田根さんにとって建築家って何ですか?
田根 建築家の仕事は、ある1つの場所に未来を創っていく。それを考えるのが僕らの仕事かな。
辻 建てることじゃなくて、未来を考えること。
田根 そうですね。思考や考えがないとやっぱり形にならない。遠いものを見て、見えないものを見つめようとする姿勢は形になる。エストニアが決まって独立してからですね。建築家の仕事を考えはじめたのは。本当は、2、3年海外で働いて日本に戻って独立して自分でやってみようと思ってましたから。
辻 じゃあ、本当に渡りに船だったんですね。そこから自分の大きな指針が変わって。その後、東京国立競技場のコンペで最終まで残った。
田根 東京国立競技場のコンペの時はですね、フランス・モンペリエにある建築事務所のドアを叩いて、図々しいお願いなんですけど時間がなかったのでアイデアを持って行って、こんなアイデアがあるんだけど一緒にやってくれないかって頼んだんです。
辻 どういう知り合いだったんですか?
田根 いえ、全然知らないです。4社くらい大きなコンペの経験がある大きな事務所をフランスで見つけて、全社にあたって断られてですね。1社だけ、いいよやってごらんと言ってくれました。
辻 全然縁もゆかりもない会社の門を叩いた。凄い度胸ですね。その後そことは連絡とっているんですか?
田根 連絡くらいはとっていますが、まだ一緒に何か仕事をしたってことはないです。因にコンペで落ちたことはいろいろ理由があるのでわかるんですが、あの時に怒っていたのは全てが白紙撤回になって再コンペをしようとなった時に、再コンペに出るには日本のゼネコンと組まなくてはいけないってのが条件だったんですよ。僕はそこで勝てるとは思ってなかったんです。状況として、こんな非常事態に勝てる見込みはゼロかもしれないけど、けれども参加することで自分たちの世代、今の若い世代がチャレンジすることは意義があるかなと思ったし、やりたいって気持ちもあったんですけど、全て断られてですね。
辻 どう断られたの?
田根 凄く曖昧な日本的な断り方でした(笑)。
辻 あなたは当たり前に勇敢ですね。そういう日本人が少なくなった気がしてたから嬉しいです。田根さん的にはずっと今後もヨーロッパに残るつもり? それとも日本に帰る?
田根 ここパリで続けていくと思います。月に1回くらいは日本に行って仕事してますんで、拠点はここでいいかな。
Photography by Takeshi Miyamoto
辻 少年時代のことを聞きたいんですけど、サッカー少年だった。
田根 ジェフユナイテッドのユースクラブに入ってました。地元のチームに入ってたんですけど、高校進学でだいたい将来が決まるので、怪我もありましたけど、同じチームメイトが当時の日本代表だったり、みんな高校生Jリーガーで最年少記録を作ったりしていましたんで、そんな人たちとサッカーしてるとこれはちょっと厳しいぞって思って。
辻 そうだったんだ。怪我じゃなくて、メンタルな部分で他の仕事を探そうって思ったんだ。そこは凄く大きいんじゃない?
田根 大きいですね。怪我もずっと持病みたいな形で持ってたんですが。
辻 声が小さいとかそういうことではない? (田根さんは小声で、正直なかなか聞き取るのが難しい。それだけクールな人です)試合中文句言っても聞こえないとか(笑)。
田根 違う違う(笑)。その怪我とまわりの状況が重なって、1、2年いろいろ悩み考えて、高校卒業したら違う道に行こうって決めました。
辻 では、高校を卒業して東海大の建築科を選んだ。そこ聞きたいです。これも偶然なの?
田根 説明難しいのですが、学力的に一番近かったのが東海大で、9割ぐらいはみんな東海大行くんですけど、そのままエスカレーターで行くのもやだなって思って、東海大は九州にも北海道にもありますんで、あ、北海道いいなーと思って。
辻 そういうこと?(笑)
田根 凄くいい加減な。東京でずっと暮らしてきたので、
辻 何か発火点はあったでしょう?
田根 面接があるので慌てて図書館に行って建築の本を見た時に、ガウディの作品集があって、バルセロナオリンピックでみたサグラダ・ファミリアが載ってて、なんだこれはって衝撃を受けました。
辻 またちょっと失礼な質問ですけどもね、大学はちゃんと行ったんですか?
田根 設計がとても面白くて、いろいろ真面目に授業受けていたら2年で単位が取り終えまして、そこで1回東京の坂 茂さんの事務所で働くことになりました。
辻 そうなんですか。
田根 坂 茂さんの本を読んで、社会的に建築家には使命があるっていう坂さんの活動に触発されて、働かせていただきたいと思いました。
辻 そこからスウェーデンに留学するんですよね? それはどうして?
田根 大学ですることがなくなって、そうしていたら大学が交換留学制度を始めて、スウェーデンと提携できたっていう年だったんです。それで、これは行ってみようと思って。
辻 デザインストーリーズでいろんな建築家やデザイナーの方たちのお話を聞いてますけど、みなさん並々ならぬ苦労されていて、やっと勝ち取ってのし上がっていくし、いまだに大変そうなんですけど、田根さんはすいすいとのし上がっていますね。ところで、田根さんはどういった建築家の資格をお持ちですか?
田根 フランスの場合は大学でちゃんとディプロム(Diplôme「資格」)を取らなければいけない。その上で専門教育を2年くらい受ければ認められます。
辻 ディプロムは取ったんですか?
田根 僕は日本の一級建築士の資格は取ってなくて、ライセンスをデンマークで取りました。フランスでもやっと今年認められるようになりました。フランスで独立するのに資格が必要になったので、エストニアのコンペと同時くらいに。26歳の時です。
辻 凄い話だな。駆け込み乗車みたいな話ですね。
田根 ほんとに慌てて。会社をやるってどうやるんだろって。
辻 フランスやデンマークのディプロムは日本で使えないんだ。
田根 使えないです。建築家の仕事はローカルなので、その国の法律を知らないといけないんで。
A House for OISO
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane / Photo by Takumi Ota
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane / Photo by Takumi Ota
辻 大学の時にスウェーデンに行って、イェーテボリですか? いいところですよね。
田根 そうですね。小さくていい街です。そこでいろんな人に出会いました。大磯の家を作らせてくれた友人はスウェーデンの大学で出会った友人です。
辻 建築家の初期に、その建築家を信じて仕事を依頼してくださるクライアントって、大事じゃないですか?
田根 大事ですね。それに出会えるか出会えないか。
辻 大磯の家はエストニアの前ですか?
田根 大磯は去年(2015年)でき上がったのでエストニアの後です。エストニアのひらめきをきっかけに、じゃあ自分でどうやって勝負するかって。
辻 じゃあ、大磯は最新作なんですね。僕はあれが一番古いんだと思ってた。
田根 個人住宅はあの一軒だけです。
辻 いやー価値があるな。いつ作ったんだろうって思ってたんだけど、最近だったんだ。30年ぐらい前に建てたのかと思ってた。勇気がありましたね、そのクライアント(笑)。
田根 そうなんです。自分でもこれ新築なんだけどなんか古く見えるなって。1年経って雨風受けて、土の部分がどんどん荒々しく獣みたいになって(笑)。
辻 あれはどうしていくんですか、直していくんですか?
田根 あれはもうあのまま、時間とともに。荒くて凄いなって思いましたけど。
辻 大磯の家はあの中に全ての田根さんの考え方が入ってるよね。あの柔らかいフォルムとか天井の丸い屋根が、普通なら三角になってるはずなのに、三角じゃなくて。完成したエストニア国立博物館も同じで、どこからが壁なのかわからないようなところが似てるなって。日本人的な和の意識なんですか?
田根 そうですね。空間をかっこよくとか、シャープに見せるのもいいのですが、優しく包み込むとか、そういう建築がこれから必要とされるんじゃないかって思いまして。
辻 その発想が古墳スタジアムに繋がるのだろうと思うのだけど、残念でしたが、コンペを通らなかった結果ね、あれはあれで意味があったのかも。あれがコンペ通っていたらもう成功しすぎで、殺されてたかもしれない(笑)。
田根 それは本当に悔しい思いはありますけど。
A House for OISO
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane / Photo by Takumi Ota
courtesy of Dorell Ghotmeh Tane / Photo by Takumi Ota
辻 縄文の家を見て感動したのは、地面より半分低くなってる。あれがいいなぁ。
田根 気持ちいいんですよね。
辻 今現在、コンペか何かに応募しているんですか?
田根 今はコンペはやってないですね。受けてる仕事が多すぎて。今は京都の現代美術館、老舗の本社改修、岡山県の工場、横浜のデパートで大きな計画があります。パリで勝ったコンペもあります。2019年に向けてパリの再改革をするプロジェクト、他にもスイスやイタリア、NYでプロジェクトが進行中です。
辻 最後に、将来の夢は?
田根 世界遺産を作りたいです。自分で作るものではないですが(笑)。でも、歴史と文化と建築が一体となって、その場所が記憶として認められるとしたら、世界遺産は建築家にとっての永遠の夢ですかね。
辻 それにしても、この成功の理由が不明瞭ですよね。ラッキー過ぎる(笑)。全部が腑に落ちない(笑)。田根さん、クールだし、かっこいいし、淡々と生きてますしね。それなのに嫌味が全然ないし、あなたは何者って思ってしまう。怒っても聞こえないしね!(笑)。そのクールさが成功の秘訣かもしれませんね。しかし、実に人生はこれからなんですよね、応援しております。また世界を驚かせてください。
Photography by Takeshi Miyamoto
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田根 剛さんが10年間活動を続けたDGT. (Dorell.Ghotmeh.Tane / Architects) は、2016年10月1日『エストニア国立博物館』のオープンをひとつの区切りに、2016年12月末をもって解散。
「引き続きフランス・パリを拠点に、15名の多国籍なスタッフと共に国際的な視点を持って活動していきたい」と、静かに決意を語る田根さん。
新しく設立された事務所は ”ATELIER TSUYOSHI TANE ARCHITECTS”
「Atelier」 とは、創作の場、手仕事、ものづくりの原点を意味し、「Architects」は、建築家、考える仕事、未来をつくる仕事を意味する。建築家 田根 剛の新たな挑戦は始まったばかりだ。
完
posted by 辻 仁成