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自分流塾「谷底にいる時にこそ、一番高い山を見上げられるチャンスの時」 Posted on 2022/08/07 辻 仁成 作家 パリ

この自分流塾で、もう何度も言いつくしてきたことだが、「人間は他人に期待し過ぎるから苦しくなる」のである。
けれども、そんなことを言っても、人間というのは期待をする動物だから、修験者でもあるまいし、期待を一切排して生きることのできる人間などはいない。
「辻さんは期待するな、と言いますが、ぼくにはどうしてもできません」という人もいるだろう。
かくいうぼくも期待ばかりしているので、その都度、ある程度は落ち込んでいる。
ただ、それは一瞬のことだ。
前もって、自分に言い聞かせていること、つまり、心構えが少しばかり、ある。
まずは、常日頃、ぼくは自分に「ほら、きたきた、期待をするな」と言い聞かせている。
誰かがぼくの気分をよくさせ、その未来を明るくするようなことを言うとする、するとぼくはすぐに
「ほら、きたきた、他人を期待するな」
と心の中でブレーキをかけるようにしている。
これを心構えにしてきた。
とくに物事がうまくいっている時など、自分が舞い上がりそうな時に、先んじて、「ほら、きたきた、期待するな」と釘をさすようにしている。
これがいいのは、ダメだった時にはあまりがっかりしないで済む点。
やっぱりな、で終わらせることができ、納得すれば人間、引きずらないですむ。
それともう一つ、もしも、実現して成果が出るまでのあいだ、興奮しすぎたとしても、自分を失ってしまわずに済む、という利点もある。
期待するな、と自分に言い聞かせながらも、しっかり仕事をやっていると、平常心で、物事に取り組めるから、これはこれで便利な呪文なのである。



もうひとつ、ぼくは自分のすべてを一つのことだけに集中させることはやらない。
おかしなことを言う、と思われるかもしれないが、今、集中して取り組んでいるのはあくまでもいくつかある目標へ向かう道の一つだ、と言い聞かせて、全力を尽くしている。
期待が裏切られ成果が出ない時に、全部を失った、と嘆くのは愚かすぎる。
それでは、立ち直るまでに何年もかかってしまうだろう。(ただし、恋愛は除く)
なので、夢や目標はいくつかつねに持っておけ、と自分に言い聞かせている。
小説家がぜんぜんダメな時は、ちょっとその暴風圏から退避して、晴れ間が広がる場所で歌でも歌っていればいい、という考え方で、そんな気楽な人生あるか、と文句が出そうだけれど、ようは、人生の道は無限にある、ということだ。
そうしておけば、どん底でうだうだ苦しむ必要がない、ということだ。

自分流塾「谷底にいる時にこそ、一番高い山を見上げられるチャンスの時」



ぼくは2020年、コロナの出現で、映画制作も中止、コンサートもすべて中止になり、その上、過酷なロックダウンのせいで、部屋から出られなくなった。
すべての仕事が奪われたのだ。
同じようなことが過去に1,2度あったので、ぼくはいくつかの道をつねに持って、一つを育てながら、別の種を土に埋めたりするようになった。
たまたま、ぼくはデザインストーリーズという電子の世界の表現方法を持っていたので、(実はこれも、他者に期待し過ぎない生き方から生まれた自分のプラットホーム作りの結果、なのである)そこで毎日、日記を書いた。
そして、もう一つ、ご存じのように、ぼくはキッチンで料理に燃えたのである。
そのおかげで、料理が上達し、結果、心が安定した。
作った料理をSNSで発信した。コンサートや映画に比べると夢とか目標とは言いにくいゴールの見えないささやかな愉しみではあるが、「日々を丁寧に生きる」という哲学は、そこから生まれた。



そして、何かを見つけたら、そこを掘り下げ、そこに自分の感動を重ねていくのが良いのである。
「日々を丁寧に生きる」ことを題材にしてぼくはエッセイをいくつも書いた。そうこうしているうちに、それが編集者の目にとまり、「なぜ生きているのかと考えてみるのが今かもしれない」(あさ出版)として出版された。2020年の9月のことである。
2020年3月にフランスは全土で強力なロックダウン制限に突入したので、その半年後の緊急出版であった。
そこにエネルギーをぶつけることで、ぼくは失った映画や音楽の悲しみから、立ち直るきっかけを手に入れることも出来た。(しかし、夢は諦めては夢ではなくなる)
その書物の中でも書いたことだが、だからこそ、日々を丁寧に生きるしかない、ということ。夢が消え去っても、毎日は消え去らない。
その日々の中でしっかりと生きることで、人生は必ず立て直すことが出来るし、再び、夢を持つことも、元気であればできる、ということなのだ。
あれから3年が経ち、ぼくはコンサート活動を再開することになった。
しかし、出来なかったその長い期間、つらくても、音楽を好きになった初心を忘れず、ぼくはギターを弾き続け、ときには風の流れる路上に出て、川沿いや公園などで歌い続けてきた。それがセーヌ川からのオンラインライブへと繋がるのである。
人間、挫けてもいいが、つねに心構えをもって、期待し過ぎないで、平常心で生きることが大事だということであろう。
人生は山あり谷ありなのだから、谷底にいる時こそ、一番高い山を見上げられるチャンスだ、とぼくは常々思うようにしている。

つづく。

自分流塾「谷底にいる時にこそ、一番高い山を見上げられるチャンスの時」

自分流×帝京大学



第6回 新世代賞作品募集
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辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。