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自分流塾「本当の自分を知ることが不満をなくすための近道である」 Posted on 2020/12/01 辻 仁成 作家 パリ

昨日は夜、眠れなくなり、暗い部屋の中で、ワインを舐めながら、静まり返ったパリの街を眺めていた。
思い返すと、今日もまたいろいろと考えてしまった。
ちょっと躓くような感じで、いつもふっと思考が立ち止まってしまう。
だいたい、人々が寝静まったこのような遅い時間に、そうなることが多い。
で、悪い方に物事を考えがちになる。
自分とはなんだろう、とか、自分はどこへ向かいたいのか、とか、生きている意味はなんだろう、とか、この繰り返しのまま自分はどんどん老けていき、最後に死ぬのだな、じゃあ、なんのために生きているのか、と…堂々巡りが始まる。
ぼくは思えば、物心がついた頃からずっとこの問いかけをしてきて、いまだに結論に至っていない。
結論などはなく、問いかけることしかないのが、生きるということだろう、ということは分かってきた。
問いかけが答えか、なるほど。



このあいだ、老子の話しをしたが、いろいろな文献を読むと、老子、という人が存在したかどうか、はっきりとしないのだそうだ。
面白い話しである。でも、いまだに老子の思想は現代人の心の中にも生きている。
紀元前6世紀ほどの大昔、「老子」という哲学の書物が戦国時代の人々の心になにがしかの道を作ったのは確かであろう。
ぼくは多くの哲学書や聖典というものを読んできたけど、この「老子」には何か、哲学とか宗教、政治、法律などとは違う柔らかい教訓の育みを覚える。
老子の言葉の中で、ぼくが最初に出会ったのは「無為自然」である。
一昨日の日記にも書いたが、だいたい世の中的には「あまり無理をしないで、自然の流れに身を任せて生きる」と解釈されている。
無為というのは現代「何もせんでふらふら生きよる」という悪い意味に使われることが多いが、ここでは「人の作為が加わってない、自然の法則にまかせる」という意味で使われている。

自分流塾「本当の自分を知ることが不満をなくすための近道である」

自分流×帝京大学

老子の哲学の中で、ちょっとわかりにくいのは、「道」という概念をその根本の思想に置いている点だ。
これはROADのことじゃない。
万物の根源と思って貰うといい。
天地が始まるよりもうんと前から存在する、いや、それよりも前の世界、あるいは宇宙の始まりのようなこと。
これが「道」であるとわかりやすく説明できるようなものは「道」ではない、と老子は言う。なので、ROADではないし、道を究めるという道でもない。
実に厄介な思想だけど、2500年前より前の中国でこのことを考えていた人間がいたことに着眼する必要がある。
老子はからっぽであることが大事だと説いた。
満ちている状態になってしまうと、得られるものが限られる。



「上善如水」(じょうぜんみずのごとし)も老子の言葉だけど、とっても懸命な生き方はね、水のように生きることだよ、と言ってる。
なぜなら、水から万物はうまれたし、水は争うことをしない。
水は花瓶や器によって形を変えることが出来るし、抗うことなく落ち着く場所にいつも落ち着いているよ、ということだ。
水はしなやかだから、どのような隙間にも入っていくし、そこから溢れることもできる。
この地上で、水に勝るものは存在しない。
同時にそれは人間の心にたとえられている気がする。
水は真理なのだ、と老子は言いたいのであろう。



ぼくが好きな老子の言葉はもう一つある。「知知者富」(足るを知る者は富む)である。
これも、地球カレッジで少しお話をしたことだけど、不満たらたらで生きるより、満足できる自分を知っている人は実は豊かなのだ、ということのたとえ。
けれども、自分を貫こうとするとき、いつも自分の足を引っ張るのは自分であり、自分の中にある不満なのだ。
「老子」の中にこう書かれている。
「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り(自分をよく知っている者は豊かな者であり、努力している人というのは志があるということだ」
本当の自分を知れば、不満は消えていくということであろう。

自分流塾「本当の自分を知ることが不満をなくすための近道である」

自分流×帝京大学
地球カレッジ



posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。