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パリ最新情報「追悼。ピエール・カルダン氏をよく知る日本人シェフがその素晴らしい人柄を語る」 Posted on 2020/12/30 Design Stories  

常に時代の先端を走り続けたモード界の奇才、ピエール・カルダン氏が、パリ郊外のアメリカン・ホスピタルで98年の生涯を閉じた。
ピエール・カルダン氏は1950年代、アバンギャルドなスタイルでオート・クチュールの常識を覆した。
彼のスタイルは業界に衝撃を与えたものの、当時オート・クチュールは実用的でないものが多い上に高価だったため、一般には受け入れられなかった。
だがその後、プレタ・ポルテという新しい波を作り、より手に取りやすいファッションも打ち出していくことで、1960-1970年代ファッション界の一世を風靡した。
彼が頭角を現したのはモード界だけではない。
自身のブランドで世界中に次々と事業を立ち上げ、ビジネスの天才とも言われた。
彼のビジネスはファッションだけにとどまらず、1981年には歴史あるレストランMaxim’sを買い取り、飲食業界へも乗り出した。

パリ最新情報「追悼。ピエール・カルダン氏をよく知る日本人シェフがその素晴らしい人柄を語る」



2009年、カルダンがオーナーだった8区ロワイヤル通りのMaxim’sPARISの厨房に入り、2011年から2018年までシェフを勤め上げた日本人料理人、篠原啓一さんに緊急取材を申し込み、カルダン氏との思い出を語ってもらった。
「自分が働いている時、すでにカルダン氏は高齢だったが、それを思わせないほどに明晰な人だったよ。杖を持つのが嫌いで、腰が曲がって歩みが遅くなってもしっかりと自分の足で歩いていた。数カ国語を操り、いくつになっても淀みのない話し方だった」
いかにも天才というオーラを放ちつつも、
「週に2、3回は店を訪れ、キッチンの人間にも気さくに話しかけてくれた。料理の感想も素直に表現してくれるが、曲げないところは曲げない人。白トリュフは大好物なのに黒トリュフの香りは大嫌いで、黒トリュフを大量に発注して怒られたことがある」
と篠原さんは懐かしそうに思い出しながら、時に敬意をこめた微笑みを交え、語ってくださった。



印象に残る出来事を聞くと、
「最初の面接の時、彼の事務所へ行ったらあまりにごちゃごちゃしていて驚いたのを覚えている。片付けられない性分のようで、そんなところもまた天才たる所以なのかな、と。でも何より印象的だったのは、握手をした時の手。分厚くて、力強くて、仕事をしてきた人の手だなと感じた」
と、天才だけではない、真摯に仕事に向き合う姿を垣間見たという。
「社長というよりは、王様のような人。30分後に店に着くからラタトゥイユを出して、と言われ、大急ぎでスーパーに走ったこともあるし、オペラ観劇が終わったから、今から60人連れて店へ行くと予告なしに言われたこともある。でも、キッチンで文句を言う人はいても、本気で怒る人はいない。雇われているから、というだけでなく、じゃあやるか! と思わせてくれる。そんな人」
と振り返った。

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篠原さんは、現在自身でパリ9区にレストラン「Alleudium」をオープンし、オーナーシェフとして活躍している。
「心残りは、カルダン氏を自分の店へ招待できなかったこと。オープンしてから、いつにしようと話はしてきたが、カルダン氏の体調とコロナ禍を考慮して、落ち着いたら、そのうち、と言っているうちにその時が来てしまった。ご高齢だし、覚悟はしていたけれど、それだけが本当に残念」
と篠原さんは寂しそうに、故人を偲んだ。
2020年、モード界は哀しいニュースでの締めくくりになってしまった。
だが、ピエール・カルダンが創り上げたファッションの道筋は、人々に影響を与え続け、未来へと繋がっていく。
さようなら、ムッシュ・カルダン。そして、ありがとう。(山)

パリ最新情報「追悼。ピエール・カルダン氏をよく知る日本人シェフがその素晴らしい人柄を語る」

Restaurent Alleudim
24 rue rodier,75009 paris

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