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退屈日記「コロナ時代を生き抜く。抗体は持った者勝ちなのか、それとも」 Posted on 2020/05/25 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ロックダウンが終わるちょっと前から、フランスの人々が騒ぎ出したのが「抗体検査」である。気が付かないうちに抗体を持ってしまった人が大勢出ているという噂が駆け巡った。ロンドンは17%くらいの人がすでに抗体を持っているというニュースが流れた。(ロンドン以外の英国は5%程度らしい) 最近の調査でフランスではすでに昨年12月末頃には感染者がいたということが分かってきた。だとすると、すでに多くの人たちが無症状で感染している可能性もある。知らぬ間に掛かっていれば知らぬ間に抗体を保持しているということになり、今後、これまでのようにコロナを恐れなくても、生きていけることになる。もしかしたら、すでに抗体を持っているかもしれない、と考える人たちが、今、フランスでは抗体検査へと向かわせている。



抗体検査が受けられるようになったのですよ、と最初に教えてくれたのは、八百屋の店主だった。ちょうど、ロックダウンが終わる前日のことである。
「ムッシュ、抗体検査が受けられるようになったんですよ。面倒くさい手続きとかなくても、誰もが受けられる。よくないですか? もしも、抗体を持っていたら。もう、びくびく生きなくてもいいんだ!」
この考えが間違えだということは分かっていたが、でも、抗体を持っていれば、持ってない人よりは
感染のリスクが減るのは間違いないようだ。
「受けるの?」
「受けますよ。はっきりさせたいじゃないです? ぼくは明後日、受けに行く予定です」
「どこで?」
「そこのラボ。ほら、目の前の」
八百屋の前にラボラトリーがある。日本にはないシステムだが、血液検査や尿検査などを受けるところがラボラトリーと呼ばれている。だいたい、どこの街にもある。ジェネラリストが書いた処方箋などを持って行き、普通はここで血液検査をする。
「処方箋いらないの?」
「いらないみたいですよ。直接、ラボに行って予約するんです」
「そりゃあ、シンプルでいいね」



それでちょっとネットで調べてみたのだが、費用は30ユーロから60ユーロとラボによって差があり、処方箋がなくても受けられるのは確かなようだ。社会保険で返金されるのは今のところ医療従事者や老人介護施設など、限られた人たちのみ。その他の人は実費で受けなければならない。
 実費を払ったとしても受けてみたい、とぼくは思った。もしも、知らない間にいつの間にか感染していて、無症状で終わっていた場合、抗体をすでに持っていることになるので、八百屋の店主が言うように、コロナを恐れないでも生きていくことが出来る。でも、そんな、うまくいくものだろうか?

とにかく、百聞は一見に如かずということで、ラボに行ってみることにした。一緒に行こう、と息子にも声をかけてみたが、ぼくは16歳で一番免疫の強い年齢で、そもそも重症化しないから、やりたければパパ一人で行って来たら、と冷たくあしらわれてしまった。仕方がない。そこでぼくは一人、様子を見に行くことになる。うちの地区のラボは受付が狭く、覗くとロビーにたくさんの人が犇めき、3密状態であった。みんなマスクをしていたが、ちょっと待てよ、と思って、中に入るのをぼくはやめた。なぜなら、この中にPCR検査を受けに来た人がいる可能性がある。この狭いラボ内で院内感染をするリスクはどのくらいだろう、と思ったら、足が竦んでしまったのだ。

「それは正解ですよ」
と医学生のシモン・ルドヴィック君が電話口で言った。免疫特集の時にアドバイスを貰った、編集部のアルバイト君だ。ライブ撮影とか、YouTubeの編集などを手伝ってくれている。
 「実は、抗体検査の信頼性については今、結構、否定的な議論が繰り返されているんです。まだ相当精度が悪くて、陽性なのに陰性って出てしまうことがあります。その確率が最大で40%くらいあるんですよ」
 「そんなに精度低いの? 40%も間違えてたら、ダメじゃん」
「もう少し待った方がいいかもしれません。実は、来週以降、15分ほどで結果の出る簡易検査を薬局でも受けられるようになりそうなんです」
「簡易検査? 薬局で? 」
「ええ。簡易検査と言ってますけど、連帯保健省のお墨付きの検査システムです。精度は高いようです。具体的な日程はわからないんですけど、たぶん、来週以降です。実は最近、連帯保健省が精査しお墨付きを与えた23種類の精度の高い検査キットを絞り込んだのです」
「へー、それは安心できるね。来週って、すぐだし」
「そんなに遠くのことじゃないです。今、焦って、ラボに行って、精度があまりよくない抗体検査を受けるより、ちょっと待って、薬局で精度の高いのをやった方がよくないですか? 薬局はラボほど混雑してないから、安心ですし」
「なんで、ラボのは精度が低いの?」
「抗体検査をみんなが望んだから、とりあえず、大至急開始した、ということに尽きると思います。いろいろな種類の検査キットを取り寄せて試したんじゃないでしょうか? だから、値段にもばらつきが出たわけです。未だ、全てが手探りなんですよ、いろいろなことにおいて」
「なるほど」
「で、検査を受けると、今のところ、ほとんどの人が陰性と言われるわけです。だから、みんながっかりしてラボから出てくるようですよ」
「でも、40%くらいの人は抗体を持っている可能性もあるってこと?」
「もしかすると」
「じゃあ、薬局で検査を受けられるようになるのを待とうかな」
「そうですね、今はそれが賢明かもしれません」
 
抗体を持っていたとしても、実はその抗体自体が人それぞれ異なっていたりするらしい。抗体を持った=もう罹らない、ではないのだ。新型コロナは通常の免疫反応と違うことが起こっている可能性を示す症例もあるようだし、抗体が3ヶ月しか残らないという研究結果も出ている。仮に、抗体を持っていても、その抗体の質や機能、レベルが低ければ中和できずに再度感染する、と言われている。抗体検査を受けるか、日々、悩んでいるうちに、抗体検査についていろいろなことが分かってきた。どちらにしても、今焦って不確かな検査をするよりも、もう少し様子を見てから、精度の高い検査キットが出回るのを待ち、調べてみるのが妥当かもしれない、と思った。いずれにしても、ぼくは必ず近いうちに抗体検査を受けることになるだろう。己を知ることが、コロナ時代をより安全に生き抜く、基本だからである。

退屈日記「コロナ時代を生き抜く。抗体は持った者勝ちなのか、それとも」

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