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滞仏日記「夢中になるものがあった。毎日が夢中だった。精一杯生きていた」 Posted on 2020/06/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、パリ市の端っこに大学街があり、その横を流れるセーヌの川沿いに広場があって、音楽好きな若い子たちが屯している。息子は今日、仲良しのイヴァン、アントワンヌ、ロマンたちとそこに遊びに行った。
「何しに行くの?」
「何もしないけど、有名な場所だから、行ってみようってなった」
「何が目的なの?」
「同世代の子たちが集まる場所だからさ、見てみたいねってなった。あのね、それにアジア人はモテるんだよ。みんなKポップが大好きだから」
「Kポップ? 聞いたことあるのかよ」
息子は笑いながらかぶりを振った。そこ、一度、ぼくも撮影で行ったことがある。広々とした見晴らしのいい健康的な場所だ。ま、しょうがないか。そう言えば、ぼくが若い頃にも新宿とか六本木とか原宿に若い連中が集まる場所があった。代々木公園なんかではみんなダンスをしていたし、ぼくだって代々木公園のホコ天でバンドやった口だし、「行くな、コロナ」とも言えないし、仕方がないので、マスク二枚と消毒ジェルを持たせて送り出した。ぼくは息子を信じているし、寛大なのだ。



滞仏日記「夢中になるものがあった。毎日が夢中だった。精一杯生きていた」

人生には楽しくてしょうがない時期がある。うちの子は16歳だけど、ぼくもその頃、楽しくてしょうがなかった。函館で本格的なバンドを始めた。レンガ倉庫街があって、その一つが友だちの女の子のお父さんが所有する倉庫で、勝手に楽器を持って集まって練習をやった。オールマンブラザーズバンドの曲を、大きな音でガンガン演奏していたら女の子のお父さんが乗り込んできて、次々にアンプのコードを引っこ抜いて、ドラムセットを蹴飛ばしたけれど、リードギターの、名前忘れたあいつ、演奏やめなくて、最後は羽交い絞めにされて、ぼこぼこに叩かれ、倒されても夢中で引き続けていた、あいつ、ぼくの中では今でも一等賞だ。



その頃、ぼくは函館公民館を借りて、フェスティバルを開催した。友だちのバンドを呼んで、クラスメイトにチケット買ってもらって、売れないから最後はそこら中の人に配って、自分も演奏をするのだけど、スタッフも主催者も僕一人なので、モギリやったり、PAやったり、照明やったり、走り回ってくたくたになって、最後は自分のバンドがステージに登場したのはいいけど、PAも照明もいなくて、ついでにお客も長いから疲れ果てていなくなって、散々だった。でも、誰もいない客席に向かって歌っていた、フェスやれて幸せで楽しくて夢中だった、あの時の自分は間違いなく一等賞だった。

デビュー前、ぼくは渋谷公会堂のすぐ近くに住んでいて、その頃、上京してプロを目指す若いのが原宿とか渋谷とかに屯していて、よく渋谷公会堂の地下の通称「渋食」でカツカレー食べてた。古着屋とかレコード屋とかでバイトしてた博多とか仙台出身のパンク野郎とかロッカーたち、でも、昼休憩の時間になると髪の毛立たせた連中が渋食でカレー頬張ってる仲睦まじい姿、めっちゃ可愛かった。みんなワークブーツ履いて、思い思いの古着で決めてて、頭はトンがってたし、そういう連中が長いテーブルを占拠して、カツカレー300円、最高だった。東北弁とか博多弁とか大阪弁とか、訛りが飛び交っていた。みんなプロを目指して夢中だった。もちろん、あいつら、みんな一等賞だ。

新宿にACBっていうライブハウスがあって、その下がビリヤード場で、演奏をすると客がジャンプして床が抜けそうになって、楽屋では殴り合いしてて、なんか空気が冷たくて、でも、イギリスみたいな場所で、憧れてるバンドがあって、本当にみんなかっこよかった。ぼくは痩せていて、やっぱりハットとかかぶっていて、スカジャン着ていて、バンダナ首に巻いて、めっちゃトンがっていて、ぜんぜん無敵で、怖い者知らずで、口では負けたことないし、息子のようにモテることはなかったけど、いつも愛を探して、ステージは全力だったし、ライブの最後は酸欠になって、倒れていた。でもやっぱ、あの頃の自分、最高だった。写真家の三浦まりこさんが張り付いてぼくらの写真を撮り続けてくれていたっけ。カメラ向けられるの好きだった。ECHOESに夢中だった、最高のバンドだった、もちろん、あの時代のすべてが一等賞だった。間違いなく、ぼくの中では一等賞だった。

滞仏日記「夢中になるものがあった。毎日が夢中だった。精一杯生きていた」

息子が帰って来たので、どうだった? と訊いてやった。
「何が?」
「モテたの?」
「あたりまえじゃない」
息子が笑った。ぼくも笑った。 

photo 三浦麻旅子 

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