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滞仏日記「僕が髪を短く切った本当の理由」 Posted on 2019/07/13 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、この映画の話が生まれた時、それは小説「真夜中の子供」が雑誌「文藝」に掲載された直後だったと思うが、果たして中洲で山笠の世界を映像に残せるのか、伝統的なその場に役者やカメラを持ち込んで、あの殺気立った激しい流れ舁きや山笠を舞台に作品が作れるのか、という疑問はあった。そこで僕は人づてに博多にかかわりのある、ありとあらゆる人を介して、中洲流に接触を試みるようになる。何があってもこの山笠の映画を撮りたいと原作「真夜中の子供」を博多の方々に手渡していった。幸いなことに、山笠関係者のこの小説への評価は高く、まもなく福岡界隈でじわりじわりとこの作品が読まれ始める。そのおかげもあり、僕は山笠振興会中洲流の重鎮の皆さんと知り合うことが出来た。そこで改めて映画化のことを切り出したのだ。平井さんという振興会の広報の方(今はすっかり仲良しになった先輩)が、「あなたのこの作品は山笠を本当に嘘なく描いていて、僕らは感動しました。あなたなら撮れると思う。協力しましょう」と言ってくださった時、僕は最初の光りを見た。もちろん、今日までの道のりはそんなに簡単なことではなかったが、この作品のうわさが広まり、僕は集団山見せの台上がりを申し付けられる。博多の各流れが博多区の呉服町をスタートし、明治通りを通って、福岡市役所を折り返し、博多区の冷泉公園まで戻る、2キロの壮大なパレードである。僕は中洲流の台の上に座って、赤い棒を振り回す役目を担った。この年齢(当時、58歳)でいきなりの締め込み(ふんどし)には少なからずの抵抗があったが、こんなことで恥ずかしがっていては、日本最大の祭りの中心に入り込むことなどできるわけもない。素っ裸になれ、と言われても僕はやっただろう。覚悟を決めて台上がりを引き受けさせていただいた。ところがご挨拶に行った山笠振興会の豊田会長に「山に上がるならばその髪は長すぎる。後進を指導するにあたって、しめしがつかないので、切ってください」と言われてしまう。豊田さんは大変真剣なまなざしでそのようなことを言われた。髪を切る時が来た、と僕は悟った。

本日の撮影は、早朝から中洲全域での情景撮影が夜遅遅くまで続いた。天気予報では翌日、大雨となっていた。セットを組んでの大事なシーンが控えている。撮影終了後、23時を過ぎていたが、櫛田神社にメインのスタッフで立ち寄り、雨が降らないように、と全員で頭を下げるのだった。
 

滞仏日記「僕が髪を短く切った本当の理由」