JINSEI STORIES

滞仏日記「さよなら、ジョゼとエリック」 Posted on 2019/10/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、エリックは日本語をしゃべることが出来るが、ジョゼはまったく喋ることが出来ない。恵比寿駅前のホテルで台風の中、一人で過ごしていた。コンサートが中止になったので、スタッフはばらしなどで忙しく、ぽつんと取り残された感じだ。

あれだけの雨と強風の中、外を出歩くことも出来ず、ホテルに閉じ込められた。「食べるものがない」とピアニストのエリックにジョゼからメッセージが入り、エージェントのルミさんがホテルのフロントから営業しているコンビニの場所を聞き出した。誰も、彼のホテルまで行けないので、一人で頑張るしかないし、帰りの飛行機が飛ぶのか、それも不安だ。不安なので、何か食料品を買いに行きたいようだ、とエリックから連絡があった。飛んで行ってあげたいけど、嵐の中、外出は控えないと・・・。さあ、困った。

この時期、ラグビーのワールドカップもあるし、訪日外国人はものすごく多い。ぼくが滞在する宿の周辺のコンビニも外国人しかいなかった。台風慣れしている日本人は早めに食料などを買って家から出ないようにしているけど、観光客の方々は暴風域になるまで接近してくる台風の脅威についてその実感がわかない。

実際、ジョゼも「まだそんなに降ってないからちょっと出たい」と言い出し、ホテル側から注意を受けたのだとか。オリンピックの時期にも台風は来るだろうし、何もわからない外国人観光客の命を守るために考えなきゃならないことがあるな、と思った。その後、風雨が強まると、ジョゼの不安はピークに達し。普段とってもクールな彼が騒ぎ出した。テレビの映像を見たのか、不安だ、大丈夫なのか、という連絡がスタッフの元に何本も届く。「外に出ないで、明日には通過するから」と説得し続けた。

結局、今朝、ジョゼから「台風がもういない。どこに消えたんだ!」と連絡が入った。ほんとうに、そう思うよね、と思った。台風一過というけど、まさにそんな朝であった。
「パーカッションだけど、5月にやるなら日本において行きたいんだけど」
とジョゼが言った。あれ、あんなに不安がっていたのに、日本に戻ってくる気あるんだ、と思わず笑みがこぼれてしまった。

実は、エリックとジョゼは台風の前日、ふたりで浅草、上野、銀座、新宿などをツアーした。ジョゼは浅草で娘さんたちのために名前入りのTシャツを3枚も買ったのだとか。日本は素敵だ、とジョゼは終始ご満悦だった。台風は怖かったけど、どうやら、また来たいと思ってくれたようだ。きっと彼の心の中に、日本でのいろいろな出来事が強く記憶に残ったのであろう。

「日本の人は優しいし、食べ物は美味しいし、東京の文化は面白いし、台風は怖かったけど、でも、いろんな意味で、ぼくの人生の中でとっても心に残る旅になったよ」
彼が乗るエアフラ機は、幸いにも、定刻より一時間の遅れだけで、パリへ向けて飛び立つことになった。ぼくは彼を見送りに行けなかったけど、また、パリで会おうと約束をして別れた。

ゲネプロまでやった後の、あまりに急なコンサートの延期。でも、ジョゼとエリックは日本を堪能したようだった。気を付けて、帰ってね、とメッセージを送ると、ハートの籠った短いメッセージが送られてきた。
「日本のファンの皆さんに、5月は必ず会いたいと伝えておいてね」 

滞仏日記「さよなら、ジョゼとエリック」