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滞仏日記「先生が日本を滅ぼす日」 Posted on 2019/10/26 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、神戸市立東須磨小学校のいじめ教師事件の続報を追いかければ追いかけるほど、単なるいじめ問題として片づけてはならない、という危機感が強くなる。一番の問題は若い教師をいじめていたのが一人ではなく四人の教師たちだという点だ。四人も大人が集まって、それはダメでしょう、と誰も言えなかったばかりか、一緒になっていじめに走った点に、集団リンチ社会の現在を見せつけられた衝撃が走る。倫理とか道徳というものが教育の現場で失われている証拠であり、一人の間違えた人間の行動ではなく、集団がそれを支援し同調していることの問題の背景に日本のいじめ構造の深刻な問題が浮き彫りにされる。もはや、いじめ問題で片づけていいのだろうか?

しかも「いじめはダメだ」と教育する立場にある教師たちが徒党を組んでいじめをやり、それをこともあろうに子供たちに喋っているこの全てが今の日本の社会の縮図じゃないか、と考えさせられ恐ろしくもなる。

処女作「ピアニシモ」でいじめについて書いたのは1989年のことだった。ぼくがこの主題を見つけたのは70年代初頭。自分が経験した集団いじめにヒントを得て書いた。ついに教師たちが集団で一人の教師をいじめる社会が到来した。これは氷山の一角だろうか? 神戸の小学校だけの特殊な問題として片づけるわけにはいかない。教育関係の皆さんこそこの問題を放置してはならない。根っこが腐った木は倒れる。腐った教育者たちに教育を受けた子たちがどのような心を将来持つことになるのか、想像してほしい。その後の報道を追いかけると、教師たちの実名報道問題や教師たちの処罰の行方ばかりが議論されているが、この事件を更地にして元通りにできました、で終われるほど単純な話ではない。

教育という言葉は嫌いだけれど、この言葉しかないので、あえて使うならば、教育の在り方をここで頭から議論し直し、教壇に立たれる全国の教師の方々が倫理や道徳や哲学について勉強し直す機会を作ってもらいたいし、ただ仕事としての先生ではなく、教壇に立つことの責任と意識と自覚の重要性について、それがどれほど大切なことかをこの事件を熟考した上で、再認識するチャンスに変えてもらいたい。教育者が、この事件を教訓に、日本の精神基礎を想像する上でどんなに教師という仕事が大切なのか、を今一度自覚し直して頂きたいのだ。これは切に思う。自覚が欠落していたりそもそも意識のない先生には日本の未来のためにその職を辞してもらいたい。今回の事件を、教育者の責任感と自覚を取り戻す機会に持っていけないのであれば、日本は教育の現場から崩壊していくことになる。ただの神戸の変な教師四人がしでかした単なるいじめ事件ではない、ということを報道の向こう側に見つける必要がある。
 

滞仏日記「先生が日本を滅ぼす日」