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リサイクル日記「パリの濡れ落ち葉、ワシも族の生態について」 Posted on 2022/06/03 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、15区の大きなスーパーに買い出しに出かけた。
ところがいつもと様子が違う。
ものすごく広い店内だけど、なかなか前に進めないのだ。
人が多いわけじゃなく、なんとなく障害物があって、「エクスキュゼ・モア(すいませーーーーん)」と声を張り上げなければならない。
それが、ぼくの前に立ち塞がっているのは、男性ばかり。
買い物をしているのだろう、と最初は思っていたが、よく見ると違う。
買い物はしていない。
三人目くらいの男性に「ちょっと、通してください」と言った直後に気が付いた。
この人たち、もしかして「ワシも族」じゃん!
まさか、と思ったが、周囲を見回すと、いるいる、テキパキと買い物をしている奥さんが…。
ご主人らしきその男性たちが自分の妻の背中を目で追っている。
フランスにもいたのだ、ワシモ族!!!
ああ、噂には聞いていたが、まさか、パリで本物と遭遇することになるとは…。

リサイクル日記「パリの濡れ落ち葉、ワシも族の生態について」

地球カレッジ



定年退職して暇を持て余した夫が、妻が買い物に出かけようとすると「ワシも行く」とくっついてくることから、このように日本では命名されることになった種族。
定年退職後、妻にまとわりつく夫を昔は、払っても払ってもぬぐえない「濡れ落ち葉」に譬えていたが、時代は移り変わり、最近は「ワシも族」が定番となった、というのであーる。
スーパーが混雑する時間帯に狭い通路を塞ぐので、大渋滞の原因になる。
たしかに、いつもよりも前に進めない理由はこの人たちだった。
買い物慣れしてないので、どこに行って何をすればいいのかが分かってない。
年末ですることもない。
その上、フランスも世界もいろいろとある最中だから、旅行にも出られない。
「ワシも族」になるしかないのだ。
「すいません」と言っても、他人事のような所在ない眼差しをまるで哲学者みたいに向けてくるだけ。
ロマンスグレーの髪の毛をいたずらにかきあげ、ふん、と無視を決め込む。



あのね、ムッシュ…、どいてくれっての。
素直にどいてくれる日本のワシも族よりも、たちが悪い。
おかげで普段なら30分で済む買い物が一時間もかかってしまった。
しかも、駐車場に戻ると、停車している車の運転席で妻を待つ夫たちが携帯をじっと見つめていて、その青白いライトに映し出された顔が駐車場のあちこちに浮かび上がり、ゾンビのようだった。

リサイクル日記「パリの濡れ落ち葉、ワシも族の生態について」

ぼくは一人ものだから、ワシもと言えないので、どこか彼らが羨ましくもあった。
そういえば、ぼくには定年がない。
ぼくは一生働かないとならない。
ワシも族にはなれないのである。
寂しい思いを心に仕舞って、荷物を車の荷台に乗せ、運転席へ行こうとしたところ、隣のワシもさんが運転する車が5センチくらいのところまで接近して塞いでいた。
入れないじゃないか。この止め方、ひどすぎる。
窓を叩いて携帯を見ているおじさんに、
「ムッシュ、入れません。どけてください」
と頼んだら、そのワシもさん面倒くさそうに、車を移動させた。
ごめんとも、何も言わないこの人たち、どう思いますか? 
なんでも奥さんに任せきりにしない方が人生は楽しいですよ、とぼくは日本語で小言を言っておいた。
人生百年の時代なんだから、定年後に残り半分が待っている。
みんな、一緒に頑張ろうじゃないの!
えいえいおー。

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