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退屈日記「ありがとう、と誰かに告げる時、人は自分を許しているのである」  Posted on 2023/02/06 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ちょっと前のことになるが、家の近所に住んでいたニコラ君に、
「ムッシュ、命って、なんですか?」
と質問をされた。
「それは、人間を含む生物を活かしていく力だよ。わかる」
「なんとなく。でも、見えないから、どこにあるのか、わからない」
「そうだね、命だけは見えないんだ。それは概念だから」
「がいねん?」
「人間が作った共通のもので、人間はみんな見えない命があると信じている。みんなが信じているから生まれたんだ」
「じゃあ、本当はないの?」
「あるよ。あるから生きているでしょ?」
「でも、特定できないんでしょ」
「ああ、普通は心の中にあるからね」
「心はどこにあるの」
「こういう質問をするのは心がある証拠だよ。心が君に教えようとしている。人間であることの意味を」

命というが、この形のないものを、説明するのは難しい。成長したニコラはもう、命や心のことを聞いて来ない。
理解出来たわけじゃないけれど、悟ったのであろう。

「命」は生きているものの素になるもので、生命という単語からもわかるように、そこから生まれる力や、それが持続する期間などを包括する概念であり、人の場合は生きていく上で他と比べられないほどに大切なよりどころということになる。
しかし、その命にはなぜ限りがあるのだろう。
永遠の命というものはなく、必ずいつか消滅してしまう。それを寿命などという言葉であらわす。
仏教でいうなら諸行無常ということだろう。
 



しかもその与えられた命はたった一度きり。使い捨てとは思わないけど、元には戻ることのできない、期間限定の乗り物のようなものだ・・・。
一度終わった命(肉体)をもう一度活用することはできない。(輪廻という概念についてはまた別の機会に)でも、実は命というものは受け渡されているのだ。
親から、親はそのまたその親から、という具合に。
突然降って湧いたようにこの世に存在した人はいない。
いろいろな事情はあるにしても、その命の連なりは気が遠くなるような大昔までずっと遡ることができる。すべての生き物の命は脈々と続いているのだ。

命は儚いものだが、その命が今日ここにあるのはその命を手渡してきた人たち(生き物)がいるということを含んでいる。
僕は子供の頃にそのことに気が付き、これはおかしい、と混乱した。
僕を生んだ親は2人だが、その2人をこの世に送り出した親は4人である。その4人の親たちをこの世に送り出すのにかかわった人たちは8人ということになるから、こうやって時代を倍々ゲームで遡っていくと、僕という一人の人間に驚くべき数の人間がかかわっていなければならないことになる。
つまり太古の方が人類の数が多いことになってしまう。こんなに大人になったのにも関わらず、このからくりがわからない。
僕はこのことを小さな頃から毎日考えすぎて、ついに、算数が大嫌いになってしまった。笑。
ただ、少なくとも人間は多くの人と繋がっているのだということには気が付くことが出来た。
自分の祖先は長い目でみると数えきれない人類と繋がっている。その「繋がりの尊さ」こそが、命という概念が私たちに教える最も大事なこと、なのではないか。
 



私たちは植物や動物を食べて生きている。
そこにも命がある。
可哀想だから何も食べないとなれば人間は死んでしまう。
小学生の頃に「食物連鎖」ということを授業で習った時に、僕は先生に「食物連載の矛盾」についてたくさんの質問をぶつけて、嫌われたことがあった。
そのことを考えすぎて僕は理科が嫌いになってしまった。
そこで僕が辿り着いたのは、「他の生命を頂くのだから、それを粗末にしちゃいけない」という考え方だった。
あれほど大量に破棄される恵方巻を食べる人たちの幸福がどのようなものかわからない。
僕が自分で料理をするようになったのは命の尊さを考えるようになってからである。
まな板の上にのった肉や魚を捌く時に、僕は感謝の心で向かう。包丁は必ず研ぎ、骨と肉を綺麗に分けて、その骨もダシに使って、大事に食べきる。
何より心がけているのが美味しく頂くということと、ごちそうさまでした、という心である。
息子は食べる前と食べた後は必ず感謝の言葉を口にし、米粒は残さない。
「よく噛め。味わって食べなさい」と僕は教えてきた。
美味しかった、ということは、よく生きたね、ということだ。
その命を自分がまた貰って、その力で生きていくのだ。
死者のことを忘れないことがその死者を生き続けさせることになる。
 



命が何かということを探し続ける人生という旅の途中だが、一つだけ息子に教えることが出来た。
「ありがとう」という感謝の言葉は誰かに何かをしてもらってお礼を伝えるためだけの言葉ではない。
こうやって与えられた命、受け渡されてきた命が自分一人のエゴで成り立っているものじゃないことを改めて知るための言葉である。
「ありがとう」は相手だけじゃなく、自分にも届けられている言葉だということを口にするたびに思うのがいい。
「ありがとう」
人間はこれを告げる時、人に感謝すると同時に、自分をも大きな意味で許しているのである。
「ありがとう」をいう度、自分のこころが浄化された気持ちになるのはそういう理由からである。
ありがとうという意味の言葉が存在しない国はない。
この言葉を発明こそが、人類にとっての大いなる救いでもある。
戦争をしあっている人たちの間には、ありがとう、がない。
裁判をしあっている人たちの間にも、ありがとう、はない。
憎しみあっている人たちのあいだにも、ありがとう、はない。
あなたが今日、ありがとう、を告げる時、あなたはこの世界からも、感謝され、許されているのである。
ありがとう、でしか、人間は繋がることが出来ないのである。
今日もたくさん、ありがとう、を言いましたか?
 

退屈日記「ありがとう、と誰かに告げる時、人は自分を許しているのである」 

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