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三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎 第二話」 Posted on 2022/01/22 三四郎 天使 パリ

ぼくは日本人に引き取られ、田舎の、周囲には泥の道と広大な畑と雑木林しかない場所から、逆に土も泥も一切ない、石のような、アスファルトとかコンクリートと呼ばれる灰色の物質によって埋め尽くされた、とにかく、車と人間ばかりが行き交う「都会」=「パリ」と呼ばれるシティに行くことになった。
もちろん、ワクチンを打つ時に獣医先生の家まで車で通ったことは何度か(正確には三回かな)あるけれど、あんなに長く、車に乗ったこともなかったので、ぼくはその途中、何回も吐いてしまい、ぼくの新しい日本人のご主人を困らせることになった。
いや、言い訳ではないが、車が怖かったからではない。
とにかく、ぼくにとってパリに行くということ自体が、経験のないことだったし、日本人が何を考えているのか、想像できるはずもなく、ま、そんなに悪そうな人じゃないことは直感でわかったけれど、・・・だけど、想像をしてもらいたい、まだこの世に3か月と3週間ほどしか生きてないぼくにとって、見知らぬ人の家に引き取られることも、パリという大都会に移り住むことも、住み慣れた犬の園のあの騒がしい生活から不意に引き抜かれるように連れ出されることも、とにかく、そのすべてが初めての経験であり、だからつまり、そりゃあ、ぼくが吐いたって仕方がないことでしょ?

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎 第二話」



そのムッシュは、つまり新しいぼくの家長が、どこまでぼくのことを大事にしてくれるのかは、暮らしてみないとわからないことだったし、とにかくすべてが経験のないことの連続だったので、食事もろくに喉を通らなかったし、日本人のムッシュがぼくから離れる瞬間が何よりも怖くてしょうがなかったのは、まぎれもない事実であった。
彼の家は白くて、ぼくの家、つまりケージと呼ばれる大きな鳥かごみたいな家は部屋の隅に置かれていて、でも、その周辺にも、トイレやベッドマットや何やかやが、ぼくのために配置され、それはそれは立派な居住空間がすでに出来あがっていたのだ。
犬からすればそこは豪邸のような、あの犬の園での暮らし、40匹くらいの仲間たちとの共同生活とは比べものにもならない、穏やかな生活や時間が、そこには、最初から緩やかに流れていたのである。
ちなみに、ぼくを落ち着かせようと、美しいピアノの音楽がうっすらと流されていた。
申し分なかったし、ぼくなんかにはもったいない世界だったけれど、だからこそ、逆に、その空間は、実はとっても強い不安をぼくに持ち込んでいたのである

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎 第二話」



「三四郎、どうだい、気に入ったかな?」
ムッシュはぼくに優しく言ってくれたし、ぼくの好物の羊肉のペットフードを彼はちゃんと用意してくれていたし、でも、ぼくはこういう静かな空間で、当然、日本人と生きた経験なんかあるわけがないので、とにかく、落ち着かなかったのだ。
「三四郎、どうした? なんで、食べない? ほら、これは君が一番好きだったはずのフードだろ? シルヴァンがそう言っていたぞ」
シルヴァンというのが犬の園の、ぼくの元のご主人の名前であった。
ムッシュがぼくに言いたいことは、つまり、犬の園のご主人が喋っていたフランス語同様、一方的な通告であり、意味不明な内容だったけれど、犬というのはそれなりに雰囲気で飼い主の気持ちを理解出来る動物で、ただ、その詳細はわからないので、顔色を窺いながら、ぼくはぼくなりに、日本語というものを理解しなければならなかった。
これも、ある種のストレスをぼくに与えていることをムッシュは理解しているのだろうか。
「三四郎!」
とムッシュはぼくを愛情豊かに呼ぶのだけど、前にも話したようにぼくは生まれてから今日まで「シンプソン」で生きてきた。
なのにロン毛のムッシュは、ぼくを三四郎と呼ぶ。
ぼくの新しい名前が三四郎だと理解するまでに、想像してもらいたい、相当な時間が必要なことを。

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎 第二話」



そもそも、犬が言語に忠実だと人間は勝手に思い込んでいるが、言語がないと生きていけない動物の奢りだ、とは思わないのだろうか・・・。
日本語は抑揚がないので犬的には、ムッシュが何を言っているのかを理解するために、フランス語よりもさらに多くの時間が必要であった。
でも、「おいで」はすぐに理解できた。
それは、彼が「おいで」という時に手招きをしてくれるからだ。
「おいで」と言われたら、彼が広げた手に向かって走ればいいのだな、とすぐに理解出来た。
それから、「ダメ」もしくは「NO」という時、これはぼくの行動が彼の意に反していることを物語っていた。
「ダメ」という時、ムッシュの優しい顔がデビルのようなひどい顔になるからである。
だから最初、ぼくは逆説的に、この「ダメ」を勘違いしてしまうのだった。
「ダメ」というのは「遊ぼう」ということかな、とぼくは当初取り違えてしまって、それで、彼が指さしたおしっこシートにピッピ(おしっこ)しちゃいけないんだ、と思いこんだりして、ぼくは逆説的に、床に盛大におしっこを、彼に喜んでもらいたい一心で、ばらまいたのである。
「ダメだよ、三四郎。ダメ、ダメ、ダメ」
これは犬的に、やれ、やれ、やれ、とことんやっていいよ、最高だよ、三四郎、と翻訳されてしまった。
だから、「ダメ」というのは、否定形なのだけど、これはぼくに大きな混乱をもたらすことになったのである。
ま、彼をせめてもしょうがない。人間の奢りが動物を混乱させていることを動物学者はもっと分析する必要がある。
ロン毛の人間は特に自意識の強い人が多いんじゃないか、とぼくは想像している。
おまけに、日本人のムッシュはなんでも、生まれて初めて犬を飼ったらしい。
そういうことを前のご主人がぼくが嫁ぐ日の朝に、
「ここだけの話しだけど、あの日本人は素人だから、気を付けるんだよ」
と、ウインクして教えてくれた。
これは批判じゃなく、誰でも最初があるし、ぼくも生まれたばかりだから、世の中のことを理解できているわけじゃないので、日本人を責めることも出来ない。
でも、犬には、犬にしかわからない感覚というものがあり、人間のような知識や中途半端な教養だけで物事を理解しようとすることもないから、ぼくはぼくのやり方で、ゆっくりとムッシュと打ち解けていくしかなかった。

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というわけで、いきなり大都会に出ていかないとならなくなったぼくを待ち受けていたものは、犬を飼った経験のないロン毛の主人と、その人に育てられた18歳の息子君の二人であった。
夜になる手前、その息子さんが学校から戻って来て、ぼくらは対面した。
この子もムッシュ同様、可もなく不可もなく、ぼくには敵対するような存在ではなかった。犬はどこでそれを察知するかというと、その人たちのぼくへの接し方でだいたいわかる。
簡単に言うと、抱きしめ方や、ぼくを膝に載せられるかどうか、撫で方や、声の発し方で、わかるのである。

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ジュート、というのがその青年の名前で、その響きは心地よくぼくを迎えてくれた。
ムッシュが「ジュート」と呼ぶ時、ぼくもそんな風に「三四郎」と呼ばれることに、ある種の安堵感を覚え、そうだ、この人達がぼくの新しい家族になるのだな、と思わせてくれたものである。
どうか、寛容にぼくを受け入れてもらいたい。

でも、その夜、ぼくは不意に吠えることになった。
なんでかって? 
それは、怖かったからだ。
つまり、ぼくは犬の園にはもう戻るつもりはなかったし(このことはいずれ話すことにしよう)、ムッシュの傍から離れたくなかった。
その白い古い家のぼくに与えられた玄関前の空間が気に入っていたし、だから、ムッシュがぼくから離れようとする時、ぼくは不意にすべてを失ってしまいそうになって、吠えるしかなかったのだ。
でしょ?
特に、ケージ(ハウス)と呼ばれる大きな鳥かごの中に入れられ、扉に鍵をかけられ、ムッシュがそこから笑顔で去ろうとする時、ぼくは必至で、彼を引き留めた。
ぼくはジャンプして、必死で尻尾を振って、
「行かないで、行かないで、ここにいて、お願い、ムッシュ、ぼくは寂しいんだよ」
と叫び続けるのだった。
ムッシュが困惑した顔で、暗い部屋に立ち尽くしぼくを見下ろしていたけれど、間違いない、ぼくには好きか嫌いかは別にして、このロン毛の彼しかいなかった。
ぼくは吠えるしかなかった。
彼をものすごく辟易とさせていることはわかっていたけど、ぼくは一晩中、試したかった。
彼がぼくを見放さないか、どうかをね。

つづく。 

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2021年9月24日生まれ。ミニチュアダックスフント♂。ど田舎からパリの辻家にやってきた。趣味はボール遊び。車に乗るのがちょっと苦手。