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三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎。第3話」 Posted on 2022/01/23 三四郎 天使 パリ

吾輩は犬である。しかも子犬である。
そのようなわけで、ぼくは日本人のムッシュの家の一員となった。
そして、ぼくが初日に吠え続けた(正確には啼き続けた)結果、ぼくはパリ移住2日目にして大きな勝利を勝ち取ることになる。
ぼくが生まれた田舎の犬の園には数えきれないほどの犬たちが共同生活を余儀なくされていたが、どの犬も、夜になると檻の中に押し込められ、元主人のシルヴァンか、もしくは奥方のナタリーさんがそのケージの扉に鍵をかけ、消灯となった。
しかし、そこは数匹の犬ごとにわけられた、ぼくにはちょっと窮屈な社会でもあった。
ぼくはそのことを思い出し、ケージに閉じ込められることに猛反発をしたのだ。
つまり、ここから出してと、吠えたのである。
尻尾をふりながら、何度もジャンプしながら、
「ムッシュ、ムッシュ、行かないで。ぼくを独りぼっちにしないで。この檻の扉を施錠しないで、ぼくは悪いことは絶対しないから、あなたの傍に置いてください」
と叫び続けたのだ。
体力を使い果たすほどに啼いて、ムッシュを困らせたことは申し訳なく思うが、ぼくにとって、とてつもなく巨大な見知らぬ街のがらんとした部屋で一人朝まで閉じ込められることの精神的な苦痛とは、つまり拷問にほかならなかった。
犬だってバカじゃないので、ケージに鍵をかけなくても、悪さをしないぼくのような賢い犬もいることを訴えるために、さらには、日本語を喋ることの出来ないぼくには、吠えることしか他に方法がなかったのである。

ムッシュの部屋のドアが閉まっても、部屋の灯りが落とされても、ぼくは吠え続けた。夜も遅かったと思うけれど、お構いなしに啼き続けたのである。
「ムッシュ、ムッシュ、お願いです!」
すると、ムッシュが困り果てた顔をして、戻って来て、ケージの扉を開けてくれた。それはまさに生き抜くための闘争でもあった。
そこで我慢をしたら、ぼくは一生、ケージに閉じ込められ、他の犬たちと同じ運命、あの田舎の犬の園の大勢の犬たちと同じような運命を背負わされることになったであろう。
いいや、それはごめんだ。ぼくにも犬権がある。
断固、ぼくは反対をしなければならなかったし、そのことを理解してくれる主人かどうか、今、しっかりと見極め、試しておく必要があった。
そのために、ぼくは啼くように吠え続けたのである。

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎。第3話」



翌日、ぼくは疲れ切って、起き上がることが出来なかった。
田舎からパリという大都会に場所を移すことだけでも、相当に神経を使った。
けれども、昨夜の壮絶な戦いの末に、ぼくは自由を勝ち取り、同時に、ぼくを信じて開錠してくれたこのロン毛の主人は、理解力のある、世間一般の人間とは少し違う、あるいはもしかすると相当な愚か者かもしれなかったが、ぼくにとっては好都合なのだった。
ぼくだって、そこまで悪い犬じゃないので、ムッシュに懐いたふりをしながらも、ぼくはぼくなりに、いつかムッシュに何かお返ししたい、と思うのであった。
この人は、要求すれば、その要求にこたえてくれる人であり、頑張り甲斐のある相手だということが分かったことは、まず、パリという都会で生きる上で、ぼくにとって最初のラッキーだったかもしれない。

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎。第3話」



ムッシュは寝室とぼくの部屋(そこはこの家のどうやら玄関なのだが)との間にある扉をあけ放ち、ぼくの寝床(ベッドマット)をケージから引っ張りだし、ムッシュのベッドの下に移動させた。
それでも、不安なぼくが夜啼きのような感じで、唸ると、どこからともなく、ムッシュの足が伸びてきて、その足はぼくの腹部に潜りこみ、時々、ムッシュの足の親指が、ぼくを擽って、ぼくが不安に落下しそうになると、そこから、そっと救出してくれた。
それが嬉しくて、朝まで啼き続けたのだけど、どの瞬間が最後だったかわからないくらい、相当に長い間、ムッシュの足の親指はぼくの腹部で、
「大丈夫だよ、ここにいるから、安心しなさい」
と「とんとんとん」をしていた。
この人は、もしかすると、ぼくが今まで出会った人間という生き物の中で、もっとも信頼できる人物かもしれない、もしくは、よほどのお人よしじゃないか、と思った瞬間でもあった。



二日目、ぼくはくたくただったが、ムッシュに、
「おいで」
と手招きをされた。
ぼくは尻尾を振って、この寛容なムッシュの腕の中へと飛び込み、思いっきり甘えることになった。
ムッシュは一日中、ぼくと遊んでくれたし、ぼくに餌を与えてくれたし、サーモンのおやつ(最初は、ゲっ、なんてまずい食べ物だ、と思ったけれど、次第に病みつきになって)それは噛んでいると、不思議なことに落ち着く作用があって、田舎の犬の園では絶対に食べることの出来ない舶来のハイカラなおやつでもあった。
その上、ムッシュは何か素敵な音楽を部屋の中で流してくれたし、実際、ぼくにサーモンのおやつを見せつけながら、奇妙な異国のメロディを口ずさんでもいた。
ぼくが甘えると、ムッシュは大概のことには応じてくれた。
でも、いくらぼくが優秀なミニチュアダックスフンドであっても、新しい飼い主、しかも、日本人のロン毛が話すことをすべて理解するのは、容易なことではなかった。
シルヴァンが言ったように、このムッシュは動物を飼うのがはじめてなので、言うことはほぼ訊いてくれたけれど、マニュアル通りの育て方しか知らないようで、おしっこシートを部屋の隅っこに置くのはいいのだけど、犬の心理的には、そこでしないことに情熱を傾けたい衝動もあって、親心を悟るのになんとなく一苦労した。
さらには、彼の話す聞きなれない言語を必死で理解しようとしつつも、どちらかというとその素人の飼い主を導くくらいのエネルギーが必要なのも確かであった。
彼は綺麗好きで、かなり神経質だったから、ぼくがちょっとそこらへんでうんちとかおしっこをすると、何かすごい匂いのするふき雑巾を持ち出して来て、長髪を床に垂らしながら這いつくばって、そこをごしごし磨くほどに拭きまくっていた。
ともかく、そんなんじゃ、お互い疲れてしまいますよォ、と思うほどに、全力で頑張る姿は涙ぐましかったが、ぼくが生まれた犬の園での真実の暮らしぶりを知ったら、さぞかし、腰を抜かすだろうな、と思った。
犬の園の床には新聞紙が敷き詰められていて、みんな好きな時に、カカ(うんち)とかピッピ(おしっこ)をしていたから、部屋中が、そういう雑多な匂いで充満していたし、シルヴァンは誰か引き取り主が来る時になると、指名された犬を一匹ずつ風呂場に連れていっては、真新しい人形のように美しく仕上げる天才でもあった。
でも、そんなことをムッシュが知る必要もないし、ぼくも彼をがっかりさせたくもないから、しおらしく世間を知らない子犬を演じ切ることにしておく。

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ともかく、この人がどういう人生を生きてきたのか、ぼくにはまだよくわからないけれど、もしかしたら、いつもこうやって、人の人生の世話ばかり考えて生きてきた、ちょっと面倒くさく、寂しい人なのかな、とも思った。
だから、ぼくはほんの少しだけ、その偽善家の彼の心理を利用して、ここで幸せになってみせるのも悪くないのかもしれない。
それを一番望んでいるのは紛れもなく、このムッシュだし、彼はぼくを抱く時、ぎゅっと、でも、優しく抱きしめ、その頬をぼくに押し付けてくる。
ムッシュが何を呟いているのか理解はできないけれど、それがぼくを不安にさせることはないし、お互いにないものを埋めあうことがこの人に返せるぼくの恩かもしれない、とちょっと思ってしまった。
とにかく、ぼくは犬の園では一番小さな犬種で、そこにはぼくに攻撃をしかけてくる怖い先輩たちもいて、実際、顔や尻尾を何度も噛まれたのだが、ここには、そういう生存のための競争相手などは居なかった。
ぼくは次第に、ここがこれまでの人生の中で、もっともぼくを幸福にさせる場所なのじゃないか、と思い始めるようになる。
理屈はわからない。でも、ぼくは確かに犬であり、ムッシュは人間だった。
「三四郎」
ムッシュはぼくをそう呼んだ。
「おいで」
彼は手を広げて、ぼくを優しく招いた。
一つだけ付け足すと、心を許すということを、ぼくもここで学び始めていた。
ぼくは全速力でムッシュの胸に飛び込むのだった。
その瞬間の幸福には嘘がなかった。

つづく。

三四郎日記「吾輩は犬である。名前は三四郎。第3話」

地球カレッジ
自分流×帝京大学



Posted by 三四郎

三四郎

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2021年9月24日生まれ。ミニチュアダックスフント♂。ど田舎からパリの辻家にやってきた。趣味はボール遊び。車に乗るのがちょっと苦手。