PANORAMA STORIES

夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・初恋編」 Posted on 2022/08/17 辻 仁成 作家 パリ

初恋は一つではなかった。幼稚園の時に一度。小学校の時に二度。中学校の時に三度。高校の時に二度。そして大学の時に一度。これらはすべて僕の初恋である。

思い切って打ち明けたものもあるし、打ち明けられずに沈没したものもある。勿論、打ち明けて沈没したものもある。ははは。

その都度、これは初恋なのだ、と都合のいい話だがそれまでの恋をないものにしてきたのだった。それでも限界がある。いくら今までをすべてないものにしてしまっても、さすがに大学生にもなると、もう「これが初恋です」というのは嘘になる。

大学の一年生くらいが、初恋の限界点ということになるのだろうか。
大人になって、どれが初恋だろう、と振り返ってみると、これだ、と決めることがどうしてもできない。大学生までは子供なのだから、それまでにした恋はすべて初恋ということではダメだろうか。と考えた。思い出だけは自分のものだ。どう思い出してもそれは自由というものである。

中学三年生の時、僕は何度目かの初恋の最中であった。でもまたしても片思いだった。基本的に僕は片思いが好きなのだ。そっとその人のことを想像していられる時間が楽しかったりする。そうだ、とっても楽しい。



その子は僕の前の席に座っていた。ところが前の席に恋する女性がいるというのは目障り極まりない。先生の話しを聞こうと顔を上げると、そこに、かの女性の背中や項や長く美しい髪の毛があるのだ。とてもじゃないけど授業どころではない。

いかんいかん、これでは落第してしまう。教科書へ視線を落として、じっと先生の声だけを聞いて一時間を凌いだ。それでもずっと教科書だけを見ていればいいというものではない。あまり頭を下げてばかりいると、血が登って息苦しくなってしまう。時々は顔を上げてしまうのは仕方のないことだ。それに下ばかり見ていると、先生に、辻、居眠りしているのか、と注意されてしまう。仕方なく顔を上げる。するとそこに恋するC・Sの髪の毛が揺れているのだ。ああ、いけない。僕はまた変態になってしまう。髪の毛をじっと見つめてしまうのである。なんて、なんて美しい髪の毛だろう。鼻息がかかりそうになるのを思わず我慢してしまい、ますます変態的な顔になってしまっていく悪循環であった。そんな時に限って、C・Sが、消しゴムを借りるために振り返ったりするのである。ああああああ、僕の顔の前にあの人の美しい顔がある。



「辻君、消しゴム」

むはー。どうすればいいのか。鼻息を我慢していたのに、その大が今は目の前にいる。唇まで十五センチというところじゃないだろうか。映画だったら、キスシーンの距離である。でも今ここで、囗づけをしてしまったら、僕はただの、本物の変態の烙印を押されてしまうことになる。ぐぐぐぐぐっと我慢をした。

「はい、消しゴム」

「ありがとう。どっかに落としちゃったみたいなんだ」

洗い立てのシャンプーの香りが僕の鼻孔をくすぐる。僕は、笑顔を振りまきながら、心の中では彼女の名前を連呼している。恋をするというのは苦しいものだ。C・Sは僕の手から消しゴムを奪うと前を向いた。奪ったのは僕の消しゴムだけではなかった。勿論、僕の心も。やれやれ。

僕の目は再び、C・Sの項や髪の毛をしらみ潰しに眺めていた。鼻息が荒くなるのを堪え、唾液を何度も飲み干して、彼女が消しゴムを戻してくれるのをひたすらまったのであった。

「はい、ありかとうね」

C・Sは消しゴムを僕に戻した。ああああ! このままでは普通ではいられなくなる。恋とは本当にやっかいなものだ。打ち明けたい。打ち明けて、成就したい。しかし打ち明けて、もしもだ、ふられたら、どうする? ふられたら、僕はどこを見ればいいのだ。もう二度と顔をあげることができなくなってしまうのではないか。

だったら、顔を上げずに、俯いて過ごすしかない。それは地獄というものであろう。

地球カレッジ

翌日、僕はC・Sに新しい消しゴムをプレゼントした。

「どうしたの?」

「なくしたって言ってたからさ」

話すきっかけを作ったのだ。とにかく普通にしなければならない。しかし恋をしていると普通というのがこれまた異常に難しいのである。身体中持て余してしまう。目線は宙を彷徨い。指先は落ちつかなく動き回り。足を何度も組み直し。まともに彼女を見ることができないものだから首の角度は異様な方向を向いてしまっている。普通にしなきや、と思えば思うほどに、普通ではいられなくなっていくのだった。

「わざわざ買ってきてくれたんだ。辻君って優しいんだね」

「なんも、これくらい」

足を組み直し、首の角度を少し変えて、咳払いをした。

「不便だろうなって、思ったからさ」

全然普通ではない。声は上擦っているし、心臓は飛びださんばかりである。ちらりとC・Sの顔を見る。あああ、もうダメだ。なんて可愛いんだろう。やはり正面は凄い。目には世界中の光が宿っているのではないかと思うほどの引力がある。ううう、好きだあ! ここで、このチャンスを逃してしまったらいけない。折角きっかけができたのだ。ここを逃したら、男ではない。僕は意を決した。

「あの、今日、一緒に帰らないか」

なんとまあ、アホな誘いかただろう。一緒に帰らないか、だと。そんな安保世代が囗にするような浮いた台詞を囗にして、今時の女性が喜ぶと思っているのかア。ところがである。C・Sは、いいよ、と言ってくれたのであった。その後はもう世界がどうなってしまったのか分からないくらいぼんやりと過ごした。ずっとC・Sの後頭部だけを見つめて放課後を待った。



かくして放課後、僕等は並んで家路についた。二人で並んで歩いていると、同級生が冷やかした。

「辻、お似合いだぞ」

僕は、ははは、うるさいかえるどもですね、と言って笑い飛ばすのだった。まだ中学三年生である。しかも田舎の中学生だ。喫茶店なんかに行くことはできない。だから僕たちは神社の境内から夕日を眺めることにした。

函館山の中腹にある神社の境内の石段に並んで腰を下ろし、沈む夕日を見つめていたのであった。僕はどのタイミングで告白しようか迷っていた。するとC・Sが、

「これからもずっと友達でいてね」

と言った。

僕はもう彼女を押し倒しそうなほどに興奮していた。

「も、も、勿論ですとも」

するとC・Sは微笑んだ。

「ありがとう。じゃあ、文通してくださいね」

と言った。文通ときたか。待ってました。手紙は得意。勢い余って、彼女の手を握りかけた時、C・Sはこう言うのだった。

「急に転校しなければならなくなってしまって。来月、東京に転校するの」

「来月?」

「来月っていってももう二十五日だから、五日後」

「へ、どうして?」

「父さんが転勤するんで。向こうの学校に編入するの」

遠距離恋愛ということか。恋は前途多難である。

「そうか、折角仲良くなれると思っていたのに」

「友達じゃない。ずっと文通をしましょう。いつまでも友達でいようよ。消しゴム大切にするね」

僕とC・Sの文通は続いた。高校生になっても暫くのあいだつづいていた。しかし、ある時、ぶつんと音信が不通になった。誰か好きな人ができたのかもしれない。最後の手紙に気になる人が転校してきた、と書かれてあった。こちらも新しい初恋をしてしまい、その後文通をサボってしまった。新しい初恋が本物の初恋ではないことが判明して、慌ててC・Sに手紙を書いたのだが、それは受取人不在で戻ってきてしまったのである。

受取人不在の紙切れが貼りつけられた手紙は暫くのあいだ僕の机の引き出しの中にあった。それがどこかへと消えてしまった頃、僕はまた新しい初恋をしていた。

夏休み特別エッセイ「ヒトナリ少年の思い出・初恋編」



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Posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。