PANORAMA STORIES

カメが教えてくれたこと Posted on 2020/03/05 清水 玲奈 ジャーナリスト・翻訳家 ロンドン

学期の半ばにある1週間の休み「ハーフターム」を前に、娘の小学校で飼われているカメを預かる家族が募集された。ウイルス騒ぎのせいで遠出はしたくないし、カメの世話をするのは楽しそう。娘に話すと絶対世話したいと言い、うちで預かることになった。
イギリスの学校では、S T E M教育(Science, Technology, Engineering and Mathematics、つまり科学・技術・工学・数学の教育)が盛んだ。カメはその一環で、昨年の秋、娘の入学と同時に小学校にやってきた。ロシアリクガメという種類で、今は子どもの手のひらほどの小ささだが、最大25センチになるらしい。ふだんはコーヒールームと呼ばれる集会室の水槽で暮らし、放課後クラブの子どもたちにかわいがられている。だから娘は、私の出張などで放課後クラブに行くのを楽しみにしている。
 

カメが教えてくれたこと

カメの飼育を担当するのは、学校のS T E M教育責任者である若い女の先生だ。丸っこい体型もおっとりした雰囲気も、カメを思わせる。休みを前に、先生から飼育マニュアルが送られてきて、説明会があった。朝はランプで照らして起こし、暖かい野外の環境を作り出す。毎日お風呂に入るが、泳げないので、お湯は上下の甲羅の間までの深さにする。えさは、いわゆるレタス(英語で「iceberg lettuce」)はカロリーが足りないので、色の濃い野菜がよい。先生はいつも自分のお昼のサラダを分ける。人間に懐かせるためにときおり抱いてやり、運動のために散歩させるのも大切。説明の間、先生はカメを抱いて、美しい亀甲柄(!)の甲羅を愛おしそうになでていた。
 



カメが教えてくれたこと

休みの始まる前日、娘と一緒にカメを迎えに行った。私は平らにケージを持ち、もう一方の手で娘の手を引いて、他の親子たちの注目を浴びながら家に帰った。まるで予約しておいたバースデーケーキの箱を持ち帰るようだった。
家に帰って、まずお風呂に入れた。娘は自分のあひるのおもちゃをバスルームから持ってきた。お湯に入るとカメは気持ち良さそうに半目になった。お風呂あがりはごはんの時間。娘はにんじんとケールを差し出し、「どっちがいい?」などと英語でたずね、こんなに英語が上達していたのか、と私を驚かせた。カメは大きな口を開け、両方ともおいしそうに食べた。にんじんを噛むときにはかりかりといい音がする。夜はケージごと暖かい寝室に移動させ、母娘と1匹で川の字で寝た。翌日から、娘はカメを机に載せて絵を書いたり、一緒にカメ歩きをしたりして遊んだ。カメはその気になると結構速く歩くということがわかった。
 

カメが教えてくれたこと

カメが教えてくれたこと

ボブという愛称で呼ばれているカメの本当の名前はサー・ロバート・R・ロイスだ。飼育マニュアルに「でもボブと呼ばれるのを好む」とあったので、先生に「呼ぶとわかるんですか」と尋ねると「いいえ」と微笑んだ。貴族の称号「サー」をつけたのもイギリス的なジョークだが、名前にはちゃんと意味がある。ロバートは前校長の名前。ロイスは、購入費をロールス・ロイス基金がS T E M教育のために寄付したことが由来だ。「だからボブは足が速いんだね」と、乗り物好きで車種に詳しい娘は言った。
休み明け、娘がボブの世話をした様子を記録した絵日記を提出したところ、校長先生の部屋に呼ばれて表彰された。学校のニュースレターにも載って、娘はとりわけ満足げだった。
 

カメが教えてくれたこと

私たち親子は、またボブが来てくれる日に備えて、カメについて勉強を続けている。リクガメの中で最も大きく足が速いのは、時速3.3キロで歩くガラパゴスゾウガメだ(「ガラパゴス」はスペイン語でゾウガメを意味する)。ビーグル号で航海に出たイギリスの自然科学者ダーウィンは、1835年にガラパゴス諸島を訪れ、それぞれの島で甲羅の形が異なるゾウガメを観察し、進化論の着想を得た。希少な生物種が絶滅の危機に瀕しているガラパゴス諸島は、世界遺産(自然遺産)第一号であり、環境問題のシンボルでもある。
 

カメが教えてくれたこと

それから、「ウサギとカメ」。古代ギリシャの奴隷イソップが語ったとされる一連のイソップ物語は、日本では江戸時代に「伊曽保物語」として広がり、中でも「ウサギとカメ」は昔話や童話にも取り入れられた。フランスでは、17世紀の詩人がイソップ物語をもとに書いた「ラ・フォンテーヌの寓話」が有名だ。世界中で親しまれているのは、身近な動物の擬人化による寓話に、普遍的な説得力があるからだろう。でも娘はイソップ物語の絵本を読むたびに、お話の最後に添えられた教訓にさしかかると「キョークンはとばして」と言う。
一方、娘はボブの世話をして以来、ケールもにんじんもよく食べるようになった。教訓嫌いの娘に、ボブは「カメは意外と足が速い」ということに加えて、「野菜はおいしい」とも教えてくれたのだ。
 

カメが教えてくれたこと

参考:『読み聞かせイソップ 50話』(チャイルド本社)所収、舟崎克彦著「イソップ解説」
 



 

Posted by 清水 玲奈

清水 玲奈

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Reina Shimizu
ジャーナリスト・翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科修了(表象文化論)。著書に『世界の美しい本屋さん』など。ウェブサイトDOTPLACEで「英国書店探訪」を連載中。ブログ「清水玲奈の英語絵本深読み術」。